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自己受容

セルフコントロールとアンガーマネジメント『怒り』の生まれるところ

の続きです。

ようやく、現在の息子の様子を紹介できる時がやってきました。長々と綴って参りましたが、後もう少しで一旦終了となります。もう少しの間、お付き合いよろしくお願いいたします。

自己卑下から自己受容へと、歩みを進めていると感じる出来事がいくつかありましたので、ご紹介していきたいと思います。

その前に、自己卑下ってなんとなく分かりやすいと思うんですが、自己受容ってどんな状態なのか?

自己受容(Self-acceptance)とは、あなたが今置かれている状況を愛し、満足することである。いまの時点の自分を、評価し、検証し、受け入れ、サポートすることを、自分自身と合意することである。

たとえば、あなたが今住んでいる家について問題がないことを、自分自身とアクセプタンスすることを考えるとする。あなたは大きな家を欲するかもしれないし、心に秘めた「夢の家」があるのかもしれないが、あなたが今住んでいる小さな家にも利点がある。だからあなたは今持っている家に満足できるし、また将来の現実として大きな家の夢を見ることもできる。
            Wikipedia参照

自己肯定とどこが違うのか

自己肯定感(じここうていかん)とは、自らの在り方を積極的に評価できる感情、自らの価値や存在意義を肯定できる感情などを意味する言葉であり[1]、自尊心(英語: self-esteem)、自己存在感、自己効力感(英語: self-efficacy)、自尊感情などと類似概念であり同じ様な意味で用いられる言葉である[2][3][4][5]。現在、これらの言葉は多義的に用いられることが少なくなく、結果としてあらゆる肯定的な心理的要素を表現する包括的名称(umbrella term)となっているという指摘がある[6]。

自己肯定感の訳語としては、self-positivity、self-affirmationなどを当てはめる試みがなされてきたが、近年ではself-affirmationが使用されている[5]。
            Wikipedia参照

自己受容は、自分で自分を受け止めて、そして満足し、自分と合意すること。

この、合意すること。これがなかなか難しいと思います。そして、これを突破しないと自己肯定には至らないだろうと思います。

現在の息子は、自分を受け止め始めています。自分を受け止め始めたことで、回りがようやく見えてきた。そんな風に感じます。

エピソード1

我が家に息子の友達がたくさん遊びに来ていた日、お友だちのA君と、その弟Bくんも一緒に遊びに来ていました。
Bくんは、4才の年少さん。めちゃくちゃ愛らしい男の子。Bくんは、Aくんがいてくれたので、ご機嫌で遊んでくれていました。

それでも、やはり4歳児はまだまだ手が掛かります。私も、Aくんも、我が家の兄ちゃんも、弟も、他のお友だちたちも、それとなくBくんの事を気にかけながら1時間ほどみんなで楽しい時間を過ごしました。そして、AくんBくんのお母さんがお迎えに来てくれた時、息子は言いました。

息子『ちっちゃい子ってこんなに大変だったんだね!オレちっとも知らなかったよ』

A、B母『そうだよね。一緒に遊んでくれてありがとうね』

息子『Aって、毎日こんな大変なことしてるの?めちゃくちゃすごいね!今まで知らなかったけど、お兄ちゃんってすごいんだね!Aカッコイイなぁ』

A、B 母『そうだよね。毎日お兄ちゃんやってるよ。A、今日はずいぶん誉められて良かったね♪』

息子『オレの兄ちゃんもやっぱすげぇんだなぁ。そして、Aって兄ちゃんだったんだなー。学校にいるときはあんまり気にしなかったけどさ』

実は、このAくん。なかなかのかんしゃく持ちさん。時々かんしゃくを起こして泣いていることもあります。二年生の時に同じクラスだったのですが、仲が良いほどケンカする状態で、しょっちゅうバトルしていた仲間同士。

Aくんは照れくさそうに、何も言わず帰っていきましたが、二人の成長がとっても嬉しくて、Aくんのお母さんと、アイコンタクトしながらニヤニヤしてしまいました。

相手の事を素直に認めることができるようになったのは、自分を受け止める事が出来てきている証拠だなと感じます。

以前ならば、自分を受け入れられず、かなり卑下していましたから、当然相手の事を認めることはできませんでした。相手を悪く言ってみたり、相手よりも自分に注目させようとしたり、自分を保つために周りを巻き込んでいました。回りからしてみれば、いい迷惑だったろうと思います。

低学年のうちに、自己卑下の時期を経験できたことは、非常に良かったなと感じます。

幼さの残る低学年の子どもたちにとって、自己受容することは、難しい時期でもあります。

学校と言う競争と評価の世界に飛び込んで、訳もわからずに、ただただ、自己受容できなくなってしまうこともきっと多いはずです。理由が分からない時、自分の言葉や態度でどうにか表現するために必死になっている。そんな低学年の子どもたちにしばしば出会います。Aくんもそんな感じの男の子でした。

けれど、それでも子どもたちは、自らの力で成長していく。そして、周りを巻き込まなくても済むような自立した状態へ一歩一歩、歩みを進めている。

息子もAくんも、早い段階で自己卑下と言う大変な経験をしました。けれど、自己卑下できた子は、強いなと感じます。自己卑下すらさせてもらえない子ども時代を過ごし、大人になってしまったらどうなるのでしょうか。

負の感情を扱う練習は、子どもにとって、とても重要な学びです。自らの感情を自らが責任者となり、いなしていく。

親や、周りの大人たちが、子どもの感情の責任者になってしまう状況を、私はいいと思いません。

感情を肩代わりすることは結局できないのに、親の方の感情で、子どもに介入してしまう。介入したい気持ちは、私にもあります。けれど、それは私のエゴであって、決して子どもの成長には繋がらない。

負の感情と向き合えた。と言う経験を、嫌というほどやってきた。それは成長の種に水をやると言うこと。

自分の種に水をやり、芽が出る。そうやって自分を自分で育てていく。そんな力が、子どもには備わっています。備わっている能力を否定し、肩代わりしようとしても、いつかきっと、それでも向き合わなくてはならない日が来ることでしょう。

親がした肩代わりの代償を、親はいつまで払い続けるのでしょうか。

子どもはいくつになっても、親に甘えたいそして、甘やかされたいと願うものです。だって、その方が楽ですから。誰だって逃げれるものは逃げたいし、楽できるならば、楽したい。向き合わなくて済むなら向き合いたくない。そんなもんだと思います。

親の甘やかしを得るための口実ならば、どこまででも、いつまででも再現なくやっていられます。年齢は関係ありません。私もそのように、親に対して思います。私の父は未だに、ずいぶん前に亡くなった祖母に対して、もっと甘やかされたかったようで、お酒が入る度に、昔話に熱が入ります。

親も、いつまででも子どもです。
私も、いつまでも子どもです。
子どもも、いつまでも子どもです。

それでいいのだと私は思います。

親として甘やかさない。けれど、子どもとして親に甘えたい。もしくは、甘えたかった。至極当然で、非常に健全だと思います。

この、健全さを、不健全だとしてしまうから、歪みが生じてしまうのです。子どもである自分をいつまでも大人が受け入れられない。けれど、それを子どもに強要したり、不甲斐なさなどの感情に結びつけたり、自己卑下してしまう。不健全と言う評価を作り出すから、自己卑下してしまうのだと思います。

甘やかしと、甘えの違いさえ分かっていれば、それでいいのだと私は思うのです。

次回はエピソード2をご紹介します。

~To be continued~

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