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「友だちのうちはどこ?」を観ました、のレビュー

どうも、煩悩マンです。

今回はまた映画レビュー!

前回が「ライダーズ・オブ・ジャスティス」で、今回「友だちのうちはどこ?」って……どういうチョイスなんですかね……自分のことですけど……

まあ、いいか!!


何も起こらない映画

この作品のあらすじは?
「男の子が、右往左往する」。
いや、もう少々詳しく
「男の子が友だちのノートを誤って持ち帰ってしまい、それを返すべく隣村にあるという友だちの家を探し歩く」
ですかね。
いや、この映画が何なのかを伝えるのに、そういう部分をなぞってもしょうがないのか……?

この……なんだろう?ヒューマンドラマ?ミニシアター?ドキュメンタリー仕立て?政権批判?
ごめんなさい「?」の連打で。この映画をなんと捉えるか、未だ決めかねているのです。

まあとにかく、映画の中で起こることは本当に些細です。

友だちのノートを間違って持ち帰ってしまった主人公アハマッド。
その友だちはこれまでにも何度か宿題を忘れるなどしており、先生から「次に忘れたら退学だ」と警告されていました。
ということは。
今アハマッドの手許にあるこのノートを今日中に返さなければ、友だちは宿題ができないまま、明日を迎えることになる。
つまり、友だちは退学になってしまう。
どこに住むかも知らない友だちのもとへ行くべく、アハマッドは家を飛び出します。

これだけです。たったこれだけ。
たったこれだけのことに、どれほど少年は不安や焦燥や後悔や失望そして安心を感じたのか、それをこの映画は、距離を引いた画で、至って穏やかに描き出しています。
全体的には単調にも思えるし、セリフも多くないのに、なんだか終始とても気持ちを揺さぶられるんですよね。
第三者目線だと大した問題なんてまるで起きないけど、主人公アハマッドにとっては大変なスペクタクル……という映画です。


僕らにも覚えがある

こんなような時分が、僕らにだってあったはずです。
まあさすがに退学だとまでは言われないにしても、先生は怖かったし、親だって絶対的な存在でした。
大人は怖くて厳しくて、ちゃんと話を聞いてくれないし、思うような返事をしてくれない。
いい加減な対応をされるし、誠実でもない。
親や先生のような「子どもと向き合ってくれる」タイプではない大人と接して、人間の容赦ない冷淡さや自分勝手さに初めて触れるのも、こういう年頃ならではの経験じゃないかと思います。

この作品で、先生は「決められた規則を守ることを学ぶ」という体験をさせるため、友だちを「退学にするぞ」と脅します。
僕としては、たぶん忘れ物をもう一度してしまったとて、先生は退学にしないんじゃないかと思います。というか、それは重要ではない。
いや、もちろん一般的に退学か否かってのは一大事ですけど、でもそういう一大事が適当に取り扱われてしまうことが、やるせない成り行きがこの世の中には、ままあるじゃないですか。それを端的に示そうとしているような気がするんです。
先生の行動を見てみてください。
授業時間に先生が現れないからといってはしゃぎ倒す子供ら(僕らも身に覚えがあることですよね)を口頭注意で済ますし、遅刻してもそんなに怒らないし、「背中が痛い」とかわけのわからないことを言って宿題をやってこない子どももスルーするし。
その割に、宿題を紙切れにやってきた友だちのことは随分𠮟りつけていて、畑仕事に時間を取られて宿題が終わらなかった子にも手心を加えません。
フォーマットはともかく宿題に取り組んだのに。宿題に手が回らないほど家事をがんばったのに。何だってそんな酷い対応をするんでしょうか。

この描写から意図を読むとすれば「理不尽」なのかなと思います。
どうでもいいところにこだわり、重要なことを適当に流し、公平な判断をせず、そのくせ物言いは立派。
直後のシーン、母親が主人公の言葉に全く耳を貸さず「先生のなさる事は正しいよ」と言い放つのが、この作品内における大人と子どもの決定的な断絶を表現していると思います。
子どもは大人のいうことを聞いていればいいんだ、より政治的に捉えるなら「民草は権力者に従っていればいい」という圧制がどんなに不可解で実りの無いものかを描いています。
先生がノートを忘れた理由を訊くのも、母親が宿題をやらない理由を訊くのも同じです。対話ではなく懐柔でしかない。強い者は弱い者に耳を貸すことなどないのです。
特に母親のシーンはわかりやすくて、宿題しなさい→宿題しないとぶつよ→ノート返すなんて明日でいいよね、それで友だちがどうにかなったってその子のせいだよね、のコンボはかなり凶悪です。
まるで主人公たちの都合なんてものは考慮されておらず、子どもの世界にもバランスや機微があることを無視しています。主人公の感じている不安や恐怖、後悔、そして責任を、お母さんは幾許も汲み取ってくれません。


人と先祖と子孫

主人公の祖父(軒先で暇そうにしてた人)は、外国人とイラン人の給金が倍も違うのは「一度言われたことをすぐにやるか否か」であると理解し、子供らが一度で動くようあるべく「礼儀をしつけること」を信条としています。
それを聞いた別の老人が「子供が少しも悪い事をしない時は?」と問うと「何か理由を見つけて」殴ってしつけるのだと返します。
これも象徴的です。結局(当時の)イラン人が不遇なのは外国にいいように使われているからであって、行動が素早くても、礼儀をわきまえても状況は改善しないのです。彼らは雇用者と労働者のいびつなパワーバランスに立ち向かうべきなのに、仕事の能率を高める方向を目指してしまっているわけです。
非人道的な労使関係それ自体を疑わない頭の固さ、こき使われる者たちの歪んだ主観を素直に受け入れる愚かさ、しつけという暴力が早々に目的と化している浅薄さに、祖父は気づけていません。
横で聞いている老人の諦めたような目がしつこいくらい映されます。「わしらが子供の頃、親父たちは厳しかった」という述懐に同意する、その脱力というか悄然というか、肩を落としている様子……。
この老人は、そうした理不尽に適応する無意味さと、それに抵抗する術の無いことを、悟っていたのでしょうか。

ただ、祖父の意見にはハッとさせられる部分もあって、それは
「子孫繁栄のための通過点としての自分を受け入れる」
ということです。
祖父は鉄拳制裁で礼儀を叩き込むけど、それは叩き込まれた子供ら以降の世代のための行為であって(それを大義名分に鬱憤を晴らしていただけなのかもしれませんけど)、自分が生きているうちには≒自分の人生には大きなメリットを生み出さないと思われます。それでも祖父は、これから続いていくべき世代のための礎にならんとするから、そういうことをするわけです。
自分ひとりではなく、そのもっとずっと前から後までの大局で「すべきこと」を考える……というのは、我々現代人にはなかなか難しいものだと思います。
しかし、人間社会は確実に世代を超えた営為によって動いていて、つまり現役を退いた過去の人間たちの成果に僕らは立ち、自分たちが生きて見ることも無い未来のために僕らは努力するわけです。
(全く別ジャンルですみませんが、傑作ゲーム「メタルギアソリッド2」はこういった世代を超えて繋がってゆくもの、文化的遺伝子”ミーム”を題材としています)


不安とはなんだったか

……で、話を主人公に戻して、結局ノートは返せないんです。一日歩き回って、目的は果たせず家に帰って、ひとしきり泣いて、ようやく「友だちのぶんも宿題をやって、明朝ノートをしれっと返しちまえばいいんだ」ということに気づきます。
(正確にはこの解決策を思いついたという明確なシーンはありませんけど、展開としてそう解釈するのが自然かなと思います)
果たして翌朝の学校、遅刻しつつもなんとか滑り込みセーフ。
ダメ元でノートではなく紙切れに宿題をやってきたものの(前回「退学だぞ」と脅されたときと同じ状況なので)絶望して俯いている友だちの隣に座り「宿題 やってあるからね」と少々上ずっているアハマッド。
結局何事も無かったかのように宿題チェックはクリアし、押し花とアハマッドの丁寧な筆跡と先生の雑なサインが並んで、映画は終了。

なんか、すごいほっとするんですよ、このエンディング。
たった半日、(まあまあ距離があるとはいえ)隣村まで行ってひとしきり駆けずり回っただけだというのに。
べつに自分らの環境は変わっていないのに。
最後のシーン、ノートが照り返している陽の光は、なんと暖かいのでしょう。
こんなふうに長くて先の見えない不安と焦燥に満ちた時間が、確かに僕らにもありました。
今も不安や焦燥はありますけど、ちょっと違いますね。
もう大人だから、自分ひとりがやれることなんてたかが知れていると、よくわかっています。民草って、そういうものなんです。
大人になっていろんな経験や知識を得ていくと、本作の主人公みたいな感覚は失われます。
漠然として底知れない、恐ろしい感覚。
年を重ねると良くも悪くも先が見えるようになるから、こういうネガティブな感情も素早く分析できてしまうんですよね。で、何にどう怖がっているのか、自分でわかっちゃう。わかったうえで、そのディティールがはっきりした課題との対峙なわけです。そんで、それを解決しても、その喜びをまたすぐ分析しちゃう。それが一時的で限定的だということを。
でも、子どもの頃は違いました。不安なことが克服できたとき、それがどんなに些末な成果でも、心の底から安心していました。
そんな満身の安堵を、この作品は思い出させてくれました。


強弱や善悪ではなくて

本作は、決して「子どもってかわいいね、かわいそうだね」とか「弱い立場の人にやさしくしたいね」みたいな映画ではないはずなんです。
中盤の主人公を見ればわかります。

隣村までやってきたはいいものの、肝心の友人宅がどこなのか全く見当もつかない主人公。
あてどなく歩いていると、なんと!
友だちが穿いていたのと同じズボンを干している家があるじゃありませんか!
ここかな?
と、ノックしてみますが、返事がありません。
諦めず周辺の戸口を回って歩くと、おばあさんが出てきました。
「知らん」「病気で歩けない」と渋るおばあさんを無理やり連れ出して件のお宅に行ってみると、ちょうどよく家人が出てきていました。
しかし、駆け寄って友だちの名を挙げるも「うちじゃない」と一蹴。
失意のまま、次の手がかりを求めて主人公は歩き出すのでした。

皆さんも見ていて気づいたと思うんですけど、これ、おばあさん完全放置なんですよね。
連れ出して角を曲がったかどうかのところでもうそこまで、画面に出なくなっちゃう。もちろんその後も不明。
まあ、子どもらしさが実によく描かれたワンシーンなんですよ。目の前のことに全力で、どんどん注意が移って行ってしまうっていう。

ただ、これを以て「子どもってそういう感じだよね~」と微笑ましくなれるかというと、僕は全然ちがうんです。
子どもは、純粋でも無辜でもない。浅慮で自分勝手で視野が狭いんです。
あるいは、子どもを「国民」とか「弱者」に置き換えることさえできてしまうかもしれません。
誓って言いますが、僕はこれを悪口として言いたいわけではないのです。どう見てもディスってるんですけど。
祖父も先生もお母さんも、たまたま友だちと同じ苗字だったネマツァデ氏も、主人公の最後の希望を(結果的に)打ち砕いた木工職人のじいさんも、いい大人だけど、富や権力はありません。毎日をどうにか生きて、大した欲望も持たずにつましく暮らしています。
でも、彼らは純朴じゃない。親切じゃない。そして、頭もあまり良くない。
しかしそれは決して、つけ入られていい弱点ではないんです。彼らは良い人ではないのだろうけど、彼らが搾取されていい、捨て置かれて構わないことには全くならないのです。子どもだってもちろんそうです。
強者と弱者、政府と国民、軍と民間、そういう二項対立を僕らは考えがちだけど、その一項にズームしてみた中には、やっぱりたくさんの小さな二項対立があるんだと思います。政情不安にあるイランの片隅の、コケール村とポシュテ村の、大人と子どものように。
この作品にはそうした多面性が散りばめられていて、おばあさん完全放置シーンはわかりやすい一例かなと思って取り上げてみました。


世代と時代

多面性と言いましたことを踏まえ、人の情みたいなものがくっきりわかるシーンも挙げてみます。
何の成果も得られず帰宅した主人公は、おつかいなど諸々を一切放棄して午後を過ごしたわけですけど、なんだかんだごはんを用意してもらえています。ただ映っていないだけなのかもだけど、こっぴどく叱られたとかそういう描写もありません。前半までは頑迷の化身に思えたお母さんからは、慈しみとまで言えそうな優しさが感じられます。
主人公は、自分の不甲斐なさにやられたのかなんなのか食べずに寝室へ行ってしまいますが、お母さんは怒りもせずにごはんを持って行ってあげます。そして、寒々しく風が吹く中、夜の庭先で洗濯物をせっせと取り込むのです。
ここでまさかの初登場であるお父さん(だと思う)も、別にお母さんの予言を成就するわけでもなく、息子をチラ見しながら所在無げにラジオをいじくっているだけです。セリフなし。でも、その様子に全然ネガティブさを感じないんですよね。ただ息子を見守っている。
ある意味最も居心地が悪いのは、祖父なのかもしれません。祖父は父親つまり自分の息子を鉄拳で育ててきたけど、どうもそれが引き継がれる気配はない。他のときにどうなのかはわかりませんが、少なくとも今晩は、祖父のやり方ではない方法で息子と孫は過ごしています。
団欒には程遠いながらも、不思議な安心が、このシーンにはあると感じます。

お母さん、せっかく洗ったのに風で地面に落としちゃうんですよね。でも取り込む洗濯物はたくさんあるから何度も行き来して、その途中でひょいと拾って持っていく。僕はイランの洗濯事情を知りませんが、まあ無意味に夜まで干しっぱなしなことは無いでしょう。お母さんも大変だったでしょうね。
息子の失踪を中心にこの日はお母さんの思った通りに家事が進まなかったのだろうけど、それでも懸命にやるべきこと、やれるだけのことをやっています。主人公はその様を見て、友だちのぶんの宿題も手を付けるのです。
この作品は、隣村へのジグザク坂を駆けるシーンとか、木工じいさんに付き合ってちんたら不毛に道を引き返すシーンとか、「地道な繰り返しと過ぎてゆく時間」がところどころ見えるように思います。主人公はネマツァデ家がどこかをいろんな人に問うて、毎回ぼやけた回答しか得られません。もう少し工夫して質問すればいいのに、もう少し親切に話を聞いてあげればいいのに、観ていてそう思った刹那には「果たして自分は、自分の周りはどうだったろうか」と振り返ってしまいます。
木工じいさんだって、生涯をかけて村中のドアを作ったけど、どこもかしこも朽ちて取り換えられてゆく。しかも「木はダメ、鉄じゃなきゃ」なんてそもそも論までかまされる始末。このじいさんがやってきたことは、讃えられないまま消えて忘れられるのです。

でも、このじいさんは、主人公に花をくれました。
あのとき主人公は気が気じゃなかったし喜んでもいなかったけど、でも、最後の最後で友だちが助かったその瞬間に、陽の光を浴びて、その花はそこにあるんです。さっきお話しした、世代を超えた営為じゃありませんか。
やった人間と受け取る人間は全然気持ちが通わないとしても、やってきたことは確かに何らかの形でつながっていくんです。ドアは朽ちてしまったけど、だからこそ新世代の鉄のドアが現れるのです。

この作品は、そうした不都合な社会や、それでも確かに変わってゆく時代を描いているのではないでしょうか。


おわり

とまあ、何の根拠もなくこんなに妄想を垂れ流していいのかな、と毎回思うのですけど、今回も大量に放出しました。匿名だからやり放題ですね。

そうそう万人に薦められるわけではありませんけど、観てみれば色々思うところが出てくる、長く味わえる作品だと思います。


だいぶ長くなりました。こんなんに時間を割いてくださり、ありがとうございます!



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