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わたしだけの
いま半分学生、半分先生として社会生活を送っている。日々学びや教養に触れながら思ったことを今日は書き連ねたい。
教育の在り方を示す『学習指導要領』というものがある。学習指導要領は社会の変化に対応するため10年に1度改訂される。
今年の2022年には高校の学習指導要領が改訂され、わたしが高校に通っていたころと教科書が大きく変わった。
どの出版社の教科書を採用しているかによって、扱う論説文や小説・詩には多少の差異があるだろうが、少なくともわたしが触れてきた題材でいうと、山崎正和氏の『水の東西』は新しい教科書に収録されていなかった。
その代わりにグラフィックデザイナーの佐藤卓氏や原研哉氏などのデザインに関する文章や、山崎正和氏は山崎正和氏でもAIを題材とした文章などが見受けられ、まさに今の時代に則した「教科書」になっている。
そしておそらく、最初に扱う文章が現代詩人・最果タヒ氏による「分からないぐらいがちょうどいい」という文章だ。
リアルタイムで追うことができ、かつ新しい時代の詩人として展覧会やネットを通じた作品発表をしている最果タヒ氏の文章が教科書で読める時代になっていることに若干の驚きもありつつ、読み進めてみると、
わたしたちはSNSを通じて「好きなもの」を誰もが分かるように・分かりやすくなるように、人に伝えるために言葉を削ぎ落として既存の概念に押し込んで伝えている。そんな生き方はつまらない。
伝えることが目的の新聞や小説とは違って、理解されることを必要としていない詩にはその人の言葉がそのまま生き延びている。言葉によって切り捨てられてきたものを、詩の言葉でならすくいだせると信じている。
といった内容が書かれている。
わたしも普段現代短歌をしているので、「表現」に関しては模索の日々だ。
先日、『プレバト』というテレビ番組で梅沢富美男さんの俳句を夏井いつき先生が添削しておられたが、その際に仰っていたことを思い出した。
永らえて短夜をなお持て余す
という句を梅沢さんは詠んでいた。
俳句は門外漢ながら、最初聞いたときにいろいろ経験してきたであろう梅沢さんの実感がこもった良い句なのではないかと思った。
しかし、夏井先生によれば、「一見すると美しい句に見えるが全国の爺さん全てに当てはまる句。梅沢富美男が詠んでいなくても良い」(これもかなりうろ覚え)ということで添削されていた。
添削例のひとつが「巡行で短夜をなお持て余す」だったため、五音ひとつでその人の人生(巡行してきた人)が分かる句になった。
たしかにな、と思った。
短歌を読むときに、「これは本当にあったことなんだろうな」と妙な説得力を持ち、輝きを放つ短歌がある。
その人らしさが滲む短歌は良い歌が多い気がしている。
虚構で、ひとが感動するだろうなと思って狙い作った短歌よりも、評価が良くても悪くても実感を詠んだ歌のほうが愛着がある。
先日、
ひろゆきの真似をしている酔いどれに主観ですけどあなたが好きだ
という短歌をTwitterで発表した。
少し前に詠んだ短歌で、主に「ひろゆき」が連作に入れにくかったためTwitterで発表してしまおうと思って軽い気持ちで流した短歌だった。
インターネットに繋がる短歌ということで、自分が思っている以上の反応があって嬉しかったのと同時に、普段のツイートやnoteからわたしと彼氏のことを知ってくれている人からのお褒めの言葉もあった。
連作には入れづらい短歌だけど、こうして見てもらえるととても嬉しい。
自分の短歌だけじゃなくて、他のひとの短歌でもやっぱり実感がこもった短歌は良い。
「あなただけの」「わたしだけの」表現ってそういう事なのかな、と思う。
好きなバンドがメジャーデビューして、曲調や曲の方向性が変わると少し悲しい。
そういう事でもあるのかもしれない。
わたしらしさを出した、わたしだけの表現をしていきたいな、と思う。
普段は文系院生として過ごしているため、学費や資料の購入に回します✩゜*⸜(ू ◜࿁◝ )