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父の最後の入院は約20日間だった。入院した時点で余命は約1か月と言われていたので覚悟は出来ていた。余命を聞いた時には、「父が死ぬ」ことがいよいよ目の前に迫ってきたなあという感覚だった。介護休暇、介護休業を取って、毎日病室で父と母と過ごした。仕事を休んで良かったなと思う。そもそも、こんなに急に悪くなるものなのか!という驚きと戸惑い。それをどう表現して良いのか、何なら誰かに八つ当たりでもできたら楽だったかもしれない。後になって癌は悪くなる時は一気に悪くなると知り、知らないとこんなにも気持ちにダメージが出るのかと実感した。

入院した日は元々入院予定日だった。今回の入院で自宅に帰ることは難しそうだったので最後の夜になるだろうと思った。私は実家の近くに住んでいるがその日は泊まった方が良いと感じて、何十年かぶりに父と母と私の3人で同じ部屋に寝た。寝たと言っても、父は眠れないのかベットから起き上がったり、私たちに話しかけてきたり。癌の転移から完全に片腕が利かなくなり、立ち上がるのにも自力では出来ず、尿意を感じるもトイレに行っても出ないを何度となく繰り返していた。もちろん、トイレに行くのも危ないので母が付き添った。いよいよ夜中の2時位になって、母も私も眠くなり「もう寝なよーーー」と半ば呆れるように言っていた。

「抗がん剤はやります」

実は、この日の1週間前に外来で主治医の先生から「今の状態では、抗がん剤はもう無理かもしれません」と言われていた。父と母と私と夫の4人で外来に行き、その主治医の発言に驚き過ぎて、一瞬何を言っているのか分からなくなるほどだった。ああ、匙を投げられた。もう治療ができないのだ。と思った。父は主治医の先生の意図を汲み取り、静かにそして憮然とした表情で「抗がん剤はやります」と言った。すでに自力では歩けず、車いすに乗っていたのだけど。そして、入院日が決まったのだ。入院までの間は、介護ベットを使い毎日の入浴は息子たちが手伝った。その光景は、私にとって忘れられない。ああ、こうやって人は人に助けられるんだなと。父は息子たちを大切に大切に可愛がってくれた。父の身体が動かなくなって、中学生だった息子たちは「おじいちゃんのお風呂、おばあちゃんでは大変だから手伝ってくれる?」と聞くと「いいよ」と。父にとってはもしかしたら屈辱的な気持ちがあったかもしれない。孫に介護してもらっているという状態に。それは、むしろ普通の感覚かもしれない。誰だって、自分が出来なくなることを簡単に受け入れる事は出来ない。

夜中の2時過ぎ、母も私も半分寝ていた。父はベットに腰かけて何かを考えているようだった。そして突然大声で「もう抗ガン剤はやらん‼」と言った後、目をむいて後ろに倒れた。咄嗟に、「死んだ」と思った母と私は慌てて起き上がって母はものすごい大声で父を呼び続けた。ただならぬ状態を感じすぐに救急車を呼んだ。救急車を呼ぶ際には、心臓が口から出そうで呂律も回らなくて声も震えて、本当に大変だった。

救急隊が到着する頃には父の意識は戻り、救急隊の質問にも答えていた。そして、救急車に同乗して入院予定だった病院に行った。診察後、少し表情が戻り「レントゲンに行ってくるな」とストレッチャーに寝たまま母と私に律儀に伝えてくれた。この日東京は大雪になった。当初の予定通りの入院だったらとても車での移動は無理だった。何か図ったような感じだとも思った。

まだ死んで欲しくなくて、とにかく大声で呼んだ母

救急車を呼ぶこと、母が傍らで父を大声で呼び続ける声。この時のシーンは今もよく覚えている。後で母が耳は最後まで聞こえてるって聞いたことがあったからまだ死んで欲しくなくて、とにかく大声で呼んだと話した。確かにあのまま声を掛けなかったら、素人考えだが黄泉の国に行っていたかもしれない。

入院中、前半は父も意識はあり話も出来た。しかし後半はモルヒネの量、酸素量ともに日々上がっていき目は開けず、話も出来ない状態になった。緩和ケアの先生は毎日病室に来てくれて、「最後まで耳は聞こえているから、奥さんと娘さんの会話は聞いてますよ」と教えてくれた。特に何か意識はしていなかったが、家にいる時のように何でもない会話を母とずっとしていたように思う。

「今日は誕生日だな。おめでとう。またな。」

私が父と最後に交わした言葉はちょうど、私が45歳の誕生日の日。私がそばに行って「おはよう」と声を掛けた。父は目を開けて、「今日は誕生日だな。おめでとう。またな。」と言って目をつぶって寝てしまった。私は「ありがとう。よくわかったね。」と思わず。というのは、入院して約10日、起き上がることは出来ず「首から下は何が付いているかわからない。自分の身体がわからない。」と言っており、テレビやカレンダーも見れなくなっていたからだ。まさか、これが最後の会話になるとは思わなかった。

入院する前にもたくさん家族で話した。話しても話しても、話足りることは無かった気がする。お金の事や、事務的なことも全て分かりやすくしてあったし、そのこと自体に何か心配はなかった。入院して、家にいてリビングで寛ぐように話をすること。

その事は私にとっては、子どもを生んでフルタイムで働いて、毎日が忙しくて目が回るような日々だったこれまでが止まった感覚。仕事の事や子供の事など一旦横に置いて寛げる時間だった。そして、一番の思い出は父が何度となく口にした言葉「ああ、良い人生だったなあ」と。

私も死ぬときに言いたいと思うし、そう言えるためにも自分の人生を生きたいと思う。

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