母から監督へ その8「くみちょ。の生い立ち」

くみちょ。(ぼくゼロ主人公の母)は、なぜ子供のカミングアウトを受け入れられたのか?
くみちょ。は複雑な環境で育ったことを、前回お話ししました。
具体的な生い立ちを少しずつ、お話しいたします。

笑っていたかと思うと、突然、鬼瓦みたいに険しい顔つきになり怒鳴りつける父。
私はいつも、父の顔色を見ていました。

空腹で泣いている私を放置していたネグレクトの実母。
やたら厳しく当たる2番目の継母。
オーバードーズでひっくり返って垂れ流し状態になる3番目の継母。
覚醒剤常習者で包丁を振り回すかなりやばい4番目の継母。
お酒に溺れてしまうアルコール依存症の5番目の継母。
そして、時々私を預かってくれた親戚の人々。
私はいつも、大人たちの顔色を見ながら遠慮していました。
困らせないように、面倒かけないように、そこに居させてもらえるように。
私が唯一、わがままを言い、甘えられたのは父方の祖母と伯父さんでした。

私は、実母とは3歳になる前に別れています。
実母は父の暴力に耐えられずに、私が2歳の時に駆け落ちをしました。
人間の記憶は3歳の時からと聞きますが、実母と別れた時の記憶があります。
ただ、これはあとから大人たちに聞いた話しを勝手に映像化して記憶したのかもしれません。
武蔵小杉駅前のタクシー乗り場で、実母が私を抱きかかえタクシーに乗ろうとしました。一緒にいた祖母は大きな声で「人攫い(ひとさらい)だ!」と何度も叫びました。周りの人が集まってきた時、母は一人でタクシーに乗り「2度と戻って来ません」と言いました。タクシーのドアがバタンと閉まりました。
その時の実母の顔は、しっかり覚えています。
「人攫い」って、昭和生まれの人にはわかると思うのですが、平成の人にはピンとこない言葉ですよね。
私は、祖母に背負われて家に帰りました。薄暗い部屋には布団に横になっている父がいて(いつもゴロゴロしている人でした)、私は祖母の膝の上で父の後ろ姿を見ていました。
祖母が、父に事情を説明していたのだと思います。

私はその後、祖母の暮らしていた4畳半のアパートに預けられました。
祖母は片目を失明していて、もう片方の目もかなり視力が弱く視覚障害者でした。
白い割烹着にもんぺ姿の優しいおばあちゃん。
祖母は生活保護を受けていました。工場のトイレ掃除、近くのアパートのお掃除をして僅かながらの収入を得ていました。
祖母に手を引かれ、アパートに一緒に行き、掃除が終わるまで階段の一番下に座り、じっと待つ、工場に一緒に行き、掃除が終わるまで、しゃがみこんで草花を眺めたり、空を見上げて雲を眺めたり(これは今も大好きです)しながら待っていました。
祖母と共に私を見てくれていた伯父さんは、子供の頃に骨髄炎に罹り、手と足に障害があり身体障害者でした。
一緒に歩く女性が変な目で見られる事を気にして、生涯独身で小さな町工場でプレスの仕事をしていました。
二人とも障害者ではありましたが、幼い私からすれば障害なんて感じる事なく、なんでもできちゃうすごい存在でした。
私が「障害」という言葉に弱者的なイメージを持たないのは、ここに原因があるのだと思います。障害者、マイノリティは決して人として劣っているわけではなく、弱者でもないと私は考えています。できない事がある、ただそれだけの事です。
私は、できない=ダメとは考えてはいません。

実母とは17年後、私が19歳になった時に再会して年に何度か会うようになりました。それもまた、私の人生のスパイスになっています。
もし再会していなければ、ぼくゼロは誕生していなかったかもしれませんね。

父方の親戚や祖母、伯父さんから聞いていた実母は、家事も不得意で洗濯物は山積みで私のおむつも足りなくなるくらいだったそうです。
掃除もできずに散らかっていて、外出する事が多く、伯父さんが様子を見にくると、いつも私がお腹を空かして泣いていたそうです。
実母は10代で父と結婚して、21歳で私を出産していたので、若かったというのもあると思いますが、周りの大人たちは実母を、あまり褒めることはしませんでした。

19歳になってから再会した実母に聞いた話しはこちらです。
私の実母は、幼い頃は裕福な家庭に育っていたそうです。
「ねえや」(今でいうお手伝いさん?お世話係?)が二人いたと聞きました。
母には乳幼児の頃に亡くなっている姉が何人かいたようで、一番長生きした姉も20歳までは生きられなかったと聞いていました。
両親を16歳頃に亡くし、その後、かなりやんちゃな生き方をしたようです。
そして、相当やんちゃな私の父と知り合い結婚したそうです。
私には生まれてくる前に亡くなった兄がいました。母が流産してしまったそうです。父の暴力が原因だったと聞きました。私も流産しかけて注射でなんとか、持ち直したと言っていました。私、生きることを強く望んだのでしょうね。
実母は父の暴力、暴言に耐えきれず、家にいるのが怖かったそうです。
その時に出会った人と駆け落ちしたのでしょう。
何度か私を連れて逃げようと思ったそうですが、一度は渋谷の道玄坂を歩いている時、父の仲間に見つかってしまい連れ戻されたとか。
武蔵小杉のタクシー乗り場の件も私を連れて逃げるつもりだったそうです。

父は盃こそ交わしていなかったけれど、どこぞかの組に出入りしていて、組長さんの運転手のような事もしていたそうです。(ここ本物の組長!)
私が生まれる前にその組とはキッパリと手を切って、足を洗ったと聞いています。それなりの制裁を受けてボロボロになって帰ってきたと伯父さんから聞いた事があります。

人は悪意なく自分の都合のいいように記憶していくものなので、それは仕方のないことです。大人たちの話しを聞いていて、片方の話だけを鵜呑みにしない事が大事、それぞれの立場で何かを守ろうとしているという事を学びました。

19歳で再会した実母は、駆け落ちした男性と家庭を持ち、男の子を二人出産していました。私の異父弟です。
昔、テレビ番組で十数年ぶりとか何十年ぶりの涙の再会というのがあったのですが、私の場合は全くそういうのはありませんでした。
抱っこしてもらった記憶は、タクシー乗り場での私を連れて行こうとしたあの感触しかなく、一緒に暮らした記憶もないので、「あ、お母さんですか?」という冷めた感じでした。びっくりするくらいに。
実母も泣く事もなく「積み木崩しみたいになってるかと思った」と言って笑っていました。
当時、非行少女のドラマ「積み木崩し」というのがあって、実母は私がかなり苦労している事を、噂で聞いていて、金髪に髪を染めて濃い化粧をしたヤンキーみたいになってると思っていたそうです。
離れていた間に、私の方も本当にいろいろな事がありましたが、いい子に育ってましたよ〜

でも、実母とは19歳の再会の前に1度だけ会った事があるんです。
父と実母は離婚届を出していなかったので、実母の産んだ子供が父の籍に入っていた時期があり、その話し合いで祖母と暮らしていたアパートに来た事がありました。当時6歳くらいだった私は、「お母さんだよ」と言われても、なんだか怖くて不安で、そばに行けなかった事を覚えています。
その時、実母はどんな思いだったのだろう・・・

2015年に実母が亡くなるまで、いろいろな事がありました。
残り4人の継母の話しもあるので、実母については一旦ここまで。

次回の往復書簡は、とこちょ。にお願いします。

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