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悩む選択 v2-62:自分の夢のための人生 vs 他人の夢の実現が自分の夢

今日の悩み:
A.人生はもちろん自分の夢を追いかけるべき。夢がわからない、気づかない、見つからない時はあるけど、自分の夢のための人生を歩むべき。

B.自分の夢がよくわからない。だから他人が夢を追いかけているのをサポートすることを自分の夢としている。それでもいいよね。

今の時代って自由ですね。生まれながらの階級や職業が決まっているわけでもないし(そういう国や地域、例外はあるとは思いますが)、宗教の選択もできる。住む場所も選べる(ビザなどの条件はあるけど)。誰と家族になるかも決められる。んん???自分が結婚したくても相手が嫌ならダメか、ま、決めれないときもあるけど、ま、原則決められる。科学も進歩し、自然界からの束縛も昔よりは開放されている。

そして何よりも個人と、その人権が尊重される社会・国々が増えている。「個人として」の人生を生きることができます。そこには一定の自由があります。日本はそういうことができるはずの国に位置づけられますね。

でも、ふと思うのですが、この個人が自由でいいよ!って社会は、良いようで、怖いとも言えますね。だって、すべてが自己責任ですから。だから、そこまで自由はいらない、というひとも多いと思います。

学生時代。義務教育があって、その流れで高校、大学や専門学校にたいていは親のお金で行って、「やること」が決められている。それぞれが自由に選んだ夢の道だが、レールは敷かれている。何曜日から何曜日まで、何時から何時まではこれしろ、あれしろ、が決まっている。だから自由に選んだけど、その先に自由は無い、とも言えます。ただ、”楽”ですね。だって自分が思考しなくても、決めなくても、判断しなくても、やることが提供される、指示される。これぐらいの拘束が安心。それ以外の時間は自由。

学生というのは、拘束と自由のバランスがある。

社会に出て会社に属する。こちらも同じ状況になる。同じく、自由は無い、とも言えるが、どこかに帰属し、人間関係があり、指示され、やるべきことをやる。

社会人になっても会社に属すると、拘束があり、それが楽で安心。そして同じくそれ以外の時間は自由。拘束と自由のバランスがある。

本当に本当にすべてが自由に放り出されて、すべて自分でがんばって、決めて、稼いで、生きて行ってね、という状況は怖いですね。

こんな夢ありますね、例えば、SONYに就職したい。TOYOTAで働きたい。外務省に入りたい。英語をつかえる仕事につきたい。看護師になって病院で働きたい、CAさんになる・JALに就職したい、プロ野球選手になる、パティシエになり高級フランス料理店で働きたい、などなど。すべて素敵な夢です。達成することがすごい夢でもあります。

ただ、どこかに「属する」ことを目指している夢です。ここで留まると「何をやるか」は課題にはなっていないです。そこで社長になるとか、4番バッターになるとか、3冠王と取るとか、賞を取る、はありえますが、「何をやるか」は属した後に、どこからともなく降りてきます。もちろん自分で考え考え、試行錯誤し、他者からのアドバイスも受けながら、ですが、一定のレールがあると言えるような気がします。それをやれば社長や4番バッターに近づく方法、レール。技術を学べる学校や偏差値の高い大学に行くとか。他の会社で必要なスキルを経験し、磨くとか。ただ、それを愚直にやれるかどうか、己を律っしられるかどうか、そのチカラ・想いがあるかは、難しいものです。

とにかく、これらの夢への道には「方法」がありそうです。

ですので、自由に自分の夢を設定しますが、その道はある程度のレールがあり、夢を達成した後も拘束があります。会社勤めや何かの組織に属して働くことを”楽”とは言えませんが、真に自由に自分で何かを決めているわけではないです。

自分が自由に考えて、SONYに入りたい、という夢を持つことと、その”程度”、つまり、自由過ぎないこと=拘束があること=歩むべきレールが見えること、も同時に求めて、自由と拘束のバランスが取られているように思います。

本当に自由過ぎる状態、先人がいない状況は、すべてが自己責任になり、それはそれは怖いはずです。あらゆることが自分のせいになります。自由の代償の自己責任、その怖さを正面から受け止めることになります。

例えば、SONYに入りたい夢を持って、SONYに入社する。それは他人の夢を手伝うという構図だと思うです。というのも、そこでは、もともとこのSONYという会社を作ったメンバーが、SONYという会社を作って世の中をどう変革したいか、どう便利にしたいか、などの夢を持っていて、それを今でも追い求めているはず、だからです。ですので、SONYに入った後は、他人(創業者、現経営者)の夢の実現を、組織の夢の実現を、手伝っている、という構図になると思うのです。

一方で、例えばですが、自分でゼロから会社を作ったひとは、純粋に自分の夢で、自由もありますが、自由過ぎで自己責任満載です。その組織を通じて、社会に何かを提供したい・変革したいという夢を持ってスタートすると思います。たまたまそんな想い・夢に気づいたのですね。すてきです。そして、自分で自由に何でもできます。会社名も、ロゴマークも、社内規定も、事業戦略も、営業方針も、採用方針も。。。でも、うまく行くかは自己責任です。社員を集めて役割分担しても、その結果は、自己責任です。失敗したら自分の貯金だった資本金がなくなります。借入金などがあれば、自己破産もありえます。

怖いですよね。自由過ぎるけど怖い。

だから、怖さを感じながらも、自由で自由な夢に取り組む場合があっても、そうではなくて、自由過ぎる怖さは避けたいから、あるいは、そもそも自由過ぎる思考ができないから(思考のバリアが無意識に働いている)、他人の夢に乗っかるという夢を、自由に選択する(=誰かの会社に属する)というのがあっても良いと思うのです。

組織に属するというのは、他人の夢に乗っかるということだと思うのですが、それはそれで人生として悪くないですね。仲間と一緒に、その組織の夢に向かってチカラを合わせて歩む。すてき。

結婚も同じですね。ひとり生きて行くのは自由だけど不安。仕事や会社、組織の時間以外のプライベートについても自由過ぎるのが不安。誰かに拘束されるけど、誰かといる、それが安心。自由はないけど安心。だから結婚。そして、子供を作ってさらに強固な関係。

だから、あまりに不安が強くて、自分と価値観があわないパートナーと拘束し合う場合は、互いに知性を成長させ、価値観の違いを統合する必要がありますね。でないと、別れちゃう。あ、でも、別れてまた、次のパートナーで不安を解消すれば良いだけですけどね。

いずれにせよ、他人の夢に乗っかるという努力の中で、自分が取り組みたい夢に気付く、見つけられる、かもしれません。他人のためにがんばっていること自体がすてきです。素敵なことに努力していると気づきがあるものです。そう信じたいですね。ということで、回りくどいでしたが、ボクはB.派ですね。

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