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悩む選択 v2-96:夢が実現しなくても日々計画を遂行できたらそれで良し vs 結果がでないと全く意味が無い。

今日の悩み:
A.人生は確かに競争。自分の夢も競争社会で勝たないと実現できない。ただ結果には運もある。勝つ時もあれば負ける時も。だから勝利を目指す努力、計画の愚直な実行に価値を置きたい。計画通りに毎日過ごす自分との戦い。それに勝つ。

B.人生は確かに競争。自分の夢の実現も他人との勝負。勝利にこそ価値がある。結果が出なければ意味は無い。”プロセスに価値がある”は逃げ。勝利を目指し、勝利が得られなくてどうして価値・意味があるのか。周囲のたわごと。最終的な結果がすべて。

サッカーワールドカップ。残念とも言えるし、なんだよーとも言えるし、がんばったと賞賛もできるし、すがすがしいとも言えるし、感動をありがとう、とも言えるし、憧れるし、自分も努力しよう、とも思える。

職場で出会った仲間が、上記のように色々感情を。あそこが惜しかった、あそこはこうすべきだった、自分ならどうした。でも、盛り上がったね、本当に惜しかった。がんばらないとと思った、諦めないっていいですね、とか。努力ってすごいことなんでしょうね、とか。同僚みなサッカー好きです。カタールのみならず、好きな選手が移籍したら海外まで応援に行ったひとも。

でも、当事者は悔しいのだろうなって、思います。想像できない悔しさ。周囲がどう思い、発言しても、当事者の心は変わらないです。当事者の中でも人により思いは色々でしょうが。

人生は競争ですね。スポーツ選手は明確です。スポーツ界にいなくても、テスト、受験、資格、就職、昇級・昇格、社長になる、経営する、資本主義で一定の財をなす、恋人を得る、結婚する、子供の教育、色々ありますね。自分の道に真剣であればスポーツ選手と比較して自分の努力は足りないなんて蔑む必要ないですね。それぞれの道での競争です。

この「競争」ですが、社会「通念」が、「常識」が、他人とのゼロサム的な戦いを「競争」と定義しているように思います。でも、この「競争」を「他人と競う」、と思わないで、「自分との競争」と思っても良いと思うのです。ありがちですが。

他人がいるから競争なんだろうと思いつつも、でも、どうかしら。無人島で1人ぼっちでも競争はあると思うのです。ま、何事も定義次第だから、同じ主旨を「競争」という言葉は使わなくても説明はできるけども。

例えば、過去に、無人島や雪山、海、戦後の混乱で取り残されたりで、1人で生き抜いたひとがいる。何ヶ月・何年も生き残ったひとがいる。ならば、その過去に生き抜いた方々との「競争」と捉え、自分も生き残るぞ、って思うこともできますね。無人島で1人でも「競争」です。負けない。他者ができたなら自分もできる。

今、目の前にいる他者、だけが「競争」相手ではないと思うのです。

だから、同じように、「競争を自分との戦い」、「競争相手は自分」と捉えるのもありかなと思うのです。色んな考えを頭の中でする自分。色んな自分。そんな自分と自分での競争です。

で、自分との戦いとは、何かというと:他人に何かで勝つではなくて、自分が目指す夢へ到達できるかでもなくて、そこに到達するに必要だと思う取り組みを毎日、愚直に、何があっても諦めずに、絶対にする、という自分との勝負・戦いを「競争」だと捉える、のです。

もちろん、そのためには、勝負として”比較する”ための、あるいは”達成する”ための「計画」が必須です。

最終的な「夢=目標」と同じくらい大切なのが、この「計画」という「目の前の目標」。大胆なストレッチした夢に近づく、ストレッチした大胆な「計画」

「夢=目標」は、Jリーガーになってドイツに移籍してワールドカップの代表選考で選ばれる、とか、プロ野球選手になって200勝する、とか。夢は、常に不変とは言わないけれど、一定の固定・明確さがあります。

でも、一方で「計画」は相対的に軽く思われがち、な気がします。例えば、とりあえずやってみてダメなら変更すればいいさ、計画は遅れることもあるさ、今日出来なかった分は明日やろう、みたいな。

でも「計画」に固執する、決めたら実行する、が大切だと思うのです。もちろん、より成果がでるように「計画」をバージョンアップはすべきです。できるようになったら厳しいメニュー・カリキュラムに変える。バージョンアップしながらも、毎日の「計画」の完全なる遂行を「目標」にする。日々、今日、今、やると決めたことはやる。「計画」実現を「目標」にする。

これが自分が決めた自分に課した勝負、競争での戦い。

でも、サボりたくなりますね。だって、「夢=目標」は遠い。だから今日1日の「計画=目の前の目標」の価値は薄くなる。確実に薄い。今日サボっても「夢=目標」への影響は軽微ですもの。

だからこその、自分との勝負・競争です。今日の「計画=目の前の目標」は別に「夢=目標」のためではないのです。その今日の、「計画=目の前の目標」が”独立“して重要な目標なのです。だから、やるんです。何があっても。

ワールドカップの選手が、4年間辛かった、これのためにすべてを賭けた、と言えるのは、「計画=目の前の目標」を独立して重要な目標として、何があってもやり抜いたから、だと思うのです。しかも、楽な簡単な計画ではない。

くだらない例かもしれませんが、飲み会に行きたくても、デートしたくても、家族や親戚や友人の不幸があっても、他の欲望があっても、これらは後回し、あるいは、完全に排除。だから辛い、しんどい。

あるいは、人間として、社会活動として、すべきと思うことも後回し。自分のそれ以外の望みがもたらす人生の幸せも諦めて一つに絞る。だから辛かったという言葉になるのかなと。

もちろん、プレッシャーやマスコミの批判、ケガや結果が出せないあせり、なども大きな辛さ要素だと思います。でも、計画という目の前の目標の必ずの実行も辛さの一因だと思うのです。

ワールドカップの選手ほどには、世間的に特別ではないボクの人生では、自分の計画の貫きは、周囲から理解されないでしょう。毎日これをしないといけないから、葬式には行けない、は許されないですね。親戚やら友人を失いそうです。

だから、今日はいいか、になりがちです。でも、それではだめ。「計画=目の前の目標」をどうにかうまく遂行する、更にはテキトーではなく真剣に実施する。これが、自分との競争に日々勝つこと、であり、結果として大胆な夢に近づく、のだと思うのです。

・計画を、日々の目の前の独立した達成すべきストレッチした目標、とする。
・その計画という目標は、簡単ではなく努力しないとできない難しい取り組み。
・それをやることが勝負、戦い、競争。自分との。
・他人は関係無い。
・夢の実現有無も関係無い。

将来にばかり目が行くと、目の前の今日をサボることができる。結果がどうなるかなんて当然不明。運もある。当然に、たぶんにある。だから、重要なのは今現在の「毎日」の積み重ね。

「毎日」の
「自分」との
「計画」に対する勝負・競争。

「計画」を愚直に「毎日」必ず実行し、やり遂げると約束した「自分」との勝負・競争に勝つ。

この「毎日」の結果に固執したい。最終的な夢が破れても、相手に負けても、やっぱり評価して良い、と思えると思う。少なくともそう思える可能性が残る。自分で自分に褒める言葉をかけてあげて良いと思える。最終的な結果がすべてではない、と気づく。

実際は、こんなにがんばったのに、夢やぶれちゃった。。。って、悔やみ・悲しみ・悲壮感・空虚感になるかもしれないけど。時が解決し、次の挑戦への大いなるチカラになります。それは、毎日の目標をがんばったからかな、と。

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