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ボクともぐらと 61_仲間から”凪”ですねと性格評価。群盲ゾウを評す?

ボクはボク。もぐらさんはもぐらさん。2人が感動した大好きな絵本「ぼくモグラキツネ馬」から互いを命名。2人は、やさしいひとになり、そうあり続け、やさしいリーダーになる、という同じ夢を持つ。悩み多き会社にやさしさを吹き込み、やさしさで引っ張り、でも、強い組織をつくれる、と信じ。その学びの、気付きの一歩一歩。

今週はもぐらさんにまだ出会えず。チームは違うから常に会うわけではないのです。それに、転職活動もされているので、近々、お別れです。でも、学びの旅はこれからも続けようね、と約束。離れ離れでも、リモートで会える世の中。互いに色んな出会いを増やし、仲間を増やし、やさしいひとになる夢、やさしいリーダーになる夢に向かって歩んでいきましょう。

で、今日は年下の仲間とオフィスで遭遇。一回りぐらい年下の仲間。ちなみに部下って言葉は嫌いで使わないです。で、アイム君です。会議が同じ時間に終わったので、いつものカレー屋さんに2人で。アイム君は初めてこのカレー屋さんへ。リラックスできて、落ち着き、そして、おいしいカレー屋さんです。

アイム君が、突然、「あれ、ボクさん、スヌーピー好き、ですか?」と質問。「え、あ、今さら?そうだよ。」「あ、なんとなく知っていましたが、携帯待ち受けも、キーホルダーも、除菌シートもそうだったんで。今日は口に出して聞いてしまいました」。

ボクはやさしいひとになり、そう有り続け、やさしいリーダーになることが夢です。そのために、絵本の「ぼくモグラキツネ馬」と共に、スヌーピーに力をもらっています。理由はぜんぜん自分でもわかりませんが、小さい頃からスヌーピー好きで、会社でイライラ、イライラ、しているときに、ふとスヌーピーの絵を書いたら落ち着いたのです。それからこの魔法を使っています。

ついでに、好きでも大切でもないひとの言動でイライラしたり、怒ったり、自分の感情をマイナス方向にコントロールされる、という事実に、悔しく思いだし、自分の弱々しさを感じたのです。だから、自分の感情は自分で決める、と思い、スヌーピーの力を借りつつ、他人の言動で感情をコントロールされないようにしています(まだまだ、なんですけど。。。)。

それに、もしかしたら、ボクをイライラさせる他人の行動は自分が原因かもですしね。何かしょうがない理由がその人の背後にあるかも、ですしね。そう思えば、怒る気持ちも、イライラも減ります。現象ではなくて理由を想像してみようマインドです。

だから、”やさしく”あることは、”強さ”ですね。他人に自分の感情をコントロールされず、もしかして自分が悪いかもと振り返る力があり、事象だけではなくて、背後の理由を想像できる力。強くないとやさしくなれません。

で、さらに「ボクさんってナギですよね。ナギ。」と言われた。「へっ? ナギ?・・・」。携帯で探し意味を見せてくれた。海などに対して言われる”凪”(ナギ)です。風がなく波がおだやか。はい、凪は知っていますけど、ボクがナギ?

ついでに「ぽやーんとしてますものね」と付け足し。「あ、でも、無能とか抜けているってことじゃないですよ」と慌てて。「安定的ということです。」とのこと。一回り歳下の仲間に”凪”と言われたのは初めて。あ、誰からも言われたことはない。

ボク的には、凪も、安定的も、ちょっと目指しているところとは違うのだけど、もちろん、火のないところに煙はないので、そう思わせている自分がいるのでしょうね。凪、安定的、と言われたら、うんともすんともいわず反応薄く、感情が無く、燃えるものがなく、いつも淡々で、やれと言われたことはまぁやるが、それ以上はない、みたいに、マイナス方向に取ってしまった。って、「ナギ」は受け入れるが、「ぽやーん」としているの?!?!ボク。。。

ゾウさんを触る盲人の寓話を思い出した。よく紹介される話ですが、インドの寓話らしいです。ゾウさんの、鼻や、足や、しっぽや、牙や、一部だけを触った盲人が、それぞれゾウさんとはこういうものだよ、と語るが、皆の主張は当然違って対立する話。

全体を見ないと物事は理解できない、俯瞰的視点が必要、点ばかり見てはダメ、というメッセージなのか、自分は部分だけしか知っていないと謙虚に思って思考・行動すべき、というメッセージなのか、世の中全体を見るのは難しい、異なる意見の人と対立せずに学びあおう・協力しあおうというメッセージなのか。これら全てですね。学びある寓話です。

この寓話はゾウさんの違う部位をそれぞれ触ったが、同じ部位を触ったとしても、使う言葉が、表現が異なることもありえますよね。同じひとが同じ部位を触ったとしても、気分が違うと発する言葉も変わってきますね。

ボクと時間を過ごして、同じ部分に触った人達でも、”凪”、”ぽやーんとしてますね”と表現する”人”もいれば、表現する”日”もあれば、”強くやさしくあろうとしているのですね”、と言ってくれる(かもしれない)”人”もいる(いて欲しい!)し、そういう”日”もあるかも。

そして、問題は、自分が自分をどれだけ本当に知っているのか、ということ。内蔵がどうなっているか(病気は今無いのか)、当然わからない。右脳派なのか左脳派なのか、わからない。自分の思考のクセはあるのか、今それに左右されているのか、わからない。この仕事は自分に向いているのか、わからない。スポーツするに腕も足もどうやってコントロールしたらいいか、わからない。ひとを好きになってしまったけど、どうしてそうなったかわからない。ボクが「ぽやーん」とした「凪」なのか、わからない。

で、「ぽやーん」としている「凪」と表現された、ということだけは事実であり、何かがそうさせているのですね。自分のことは自分でわからない。だから、一瞬マイナスに思ったけど、ま、別にいいね。素直に「受け入れる力」、「おもしろがる力」。これも強くてやさしいひとになるには必要ですね。他者の評価はありがたく受け入れます。

それに一緒にカレー屋さんに来てくれるだけでうれしいですし。

先日、高齢者の健康寿命増進イベントに参加する機会があり、会場に行ったら、「あなたの血管年齢測ります」という機械があった。2、3分の計測。なんと結果は25歳ほど年上。というかもはや完全高齢者扱い。「なんか機械が変ですね。指をアルコール消毒した直後だと誤作動しますか?」とか言って、試験結果表も対策リストも受け取らず退散。自分に都合の悪いことはさよーならーマインド全開。「凪」は許容できたが、血管年齢は受け入れず。あれれ、まだまだ自己鍛錬の道は続き、ゴールは遠そうですです。。。

最後はいつも「ぼくモグラキツネ馬」より:

「”おおきくなったら、なにになりたい?” モグラにきかれたので、ぼくはこたえた。”やさしくなりたい”」

「”人生はむずかしい。でも、きみはたしかに愛されているよ”」

「この世界をおもしろがろう。」




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