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BLと腐女子なるものに対する僕の考え

浅原ナオト作『彼女が好きなものはホモであって僕ではない 再会』を読みました。


小説の感想を書くのは得意じゃないけど、やっぱり文章上手い人の物語っていい意味でその世界観に沈めるというか、浸れるというか。だから書きたくなった。最後のミスターファーレンハイトの章は悲しい結末だとはわかってた。でもどろどろしたストーリーではないしお話としての完成度が高いので読後感はいい。


小説の感想を書くのが得意じゃないのは僕に語彙力がないからで、文中のもっと素敵な表現をその辺の言葉で要約して台無しにしたくない。もっと言うなら、僕がその本から読み取ったものを僕の世界の言葉で読み替えて、さらにそれを他の人に伝えたなら、それはもう「僕が読んだ」物語そのものではないし、作者がパソコンに打ち込んだ世界とは一層かけ離れてしまうと知っているから。

でもあらすじだけじゃ伝わらないものもこの世にはたくさん存在する。大学の友達が僕の記事を読んで「susukiは言葉に愛されてる」ってすごく嬉しいことを言ってくれたことがあるけれど、もしそう思ってくれる人がどこかにいるなら、僕も自分の言葉で今のこの感動を残しておきたい、なんて思った。


だから一応これは本の感想として書き始めているんだけど、書き終わってみると僕がこの本の世界に触れて思い出したことを文字にしているに過ぎない。だから厳密には読書感想というよりただ本から発想を得たエッセイ(僕が散文と呼ぶ文章)と言う方が正しいかもしれない。もしこの本を読んだことがない人は、是非読んだ後に、自分が読み取ったものとどう違うのか感じてほしいなと思う。

この先の内容について補足を加えるなら、僕は主に「腐女子」について書いている。ゲイ(作品中でいうところのホモ)である純君やファーレンハイト等について何か言うつもりは全くない。もちろん、転校先での純君たちの物語やミスターファーレンハイトの過去には考えさせられるものがあったけれど、僕は決して当事者ではないから、僕の薄っぺらい言葉で適当に表現していいものじゃない。読みたい人が本を買って、自分で感じとったものが全てだと思う。なのでここから書くのは、一応当事者と言ってもいいであろう、腐女子についてに限っている。すごく好きな作品だし軽い話ではないので下書きに普段の数倍の時間がかかってしまった。しかも結構分量がある。。。気が向いたときにお読みください。

二つ目の補足として、僕にはいわゆる腐女子、BLが好きな友達や知人がほとんどいない。なので、そういう意図は全くないのだが、僕の配慮や言葉が足りず、もしかしたら馬鹿にされてるようで気分を害する方がいるかもしれない。そう感じる方がいたらごめんなさい。その場合はそっと読むのをやめてしまってください。




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僕はBLを読むけれど、僕は自分のことを腐女子と言ったことはない。例えば、僕は根っからのオタクではない、というのは周りのオタクさんを見ていれば自然にわかることで、同じように僕は腐女子ではない(僕は個人的にオタクに「さん」をつけて呼びたいのでそうしてます)。


BL読む時点で世間的には恐らく腐女子なのだが、そういうんじゃなくてなんというのか、僕はBLというジャンルも読める読書好きなのだと思う。いったい何の話をしてるのかという感じなのだけど、これは重心と屁理屈のお話なのだ。


『彼女が好きなものはホモであって僕ではない 再会』(以下『再会』)の三浦さん視点の章に出てくるBL好きの後輩がいる。その子を仮に『腐女子』と呼んだとする。それは一巻目(『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』)の最初に出てくる「物理の問題分に必ず出てくる世界を簡単にするフレーズ」(*)という意味ではなくて、一般的な意味、BLを読む人(の心理の典型例)という意味で。


(*)
――ただし摩擦はゼロとする――
高校物理の問題文の最後には必ずと言っていいほどこの一言がある。実際には摩擦がない、なんてことはあり得ないけれど、摩擦を考えていたら問題が難しくなるからゼロということにしている。そんな風に『三浦さんは腐女子だから絵が上手い』『○○はゲイだから~』と人の一面を切り取って世界を簡単にしてしまいがちだということ、本当は『三浦さんは(三浦さんだから)絵が上手い』だけだということ。そういうことを主人公のネット友達ミスターファーレンハイトとチャットするシーンがある。
個人的にすごく印象に残っているシーンです。



この『再会』の中で三浦さんと後輩の子は対照的に描かれていて、つまりは、純と知り合って仲良くなったことでBL作品を純粋に楽しめなくなった三浦さんと、BLを純粋に楽しんでいる後輩の子。僕はどっちかというと三浦さんタイプで、それが僕が自分のことを腐女子と言わない一つの理由でもある。


これが重心のお話。後輩の子を腐女子とするなら、うん、確かに僕は腐女子ではないかもしれない。ファンタジー感(都合の良さ)が一定以下でないと楽しめないし、(エロければエロいほど)どこかで申し訳なさを感じながら読むことも多い。僕は海外のファンタジー小説(特にハイファンタジー小説)が好きだけど、その何がいいって、ファンタジー世界の中でも登場人物たちは必死に生きているのだ。僕にとって、全ての小説に対する評価の基準はそこにある。ファンタジーだろうが何だろうが、その世界と向き合っているかどうか。

上から目線に聞こえたら申し訳ないけれどだってそうなのだ。例えば、今まで酷いことされてきたけどそれでも好きな相手がいて、ある日自分を助けてくれて告白されて、、、最終的に雰囲気に流されてしまうのであればそれ相応の理由(心情変化と描写)がいる。それが丁寧に描かれているなら僕は文章が上手い、面白い、と言う。最近のラノベや少女漫画の異世界転生ものが苦手な人の多くも、僕と同じなんじゃないかと思っている。つまりは、その「ぶっ飛んだ設定を都合よく使ってリアルな問題に触れないで(作者側の本位で)綺麗ごとで済ませてしまう」ところが気に入らないのではないかと思っている(僕が転生ものも読むけど、その雑さがどうにも許せない作品もある)。


じゃあ、三浦さんは?もともとは立派な腐女子だったわけで、純君に出会ってBLを以前のように楽しめなくなった三浦さんは腐女子ではなくなったのか? 二次元メインからリアルメインになったら、それは僕の言う重心が移ったということでいいのか。三浦さんは腐女子ではなくなったのか?


多分そうではないと思う。僕は他人や自分に対して腐女子という単語を使わないけれど、もし使うのであれば三浦さんはやっぱり腐女子かもしれないと思う。

最初の方にオタクの話を書いたけれど、腐女子というのはBLが好きなオタクなのだと、どこかのラブコメ漫画に書いてあった気がする(『元カレが腐男子になっておりまして』か『オタクに恋は難しい』のどっちかかな)。

既に書いたけど、僕は生粋のオタクではない。アニメも見るし、高校の時はよくラノベも読んでいたし、漫画も買う。でもそれだけだ。僕はあんまりグッズを集めないし、追っかけもしない。オタクを名乗るにはかけている時間と労力と金が足りないのだ(もちろん本人は好きで集めているわけで、労力とか費用なんて思っていないと思う)。


というわけで、仮に誰かを腐女子と呼ぶならばそれは「BLが好きな(だけの)オタクさん」のことであろうと思っている(世の中の定義的にもそうかもしれないけどもっと広義的に(マイナスイメージで)呼んでいる人も多いのではと思う)。つまりは、リアルとファンタジーとの重心とはあんまり関係なく、オタ活ができるならば腐女子さんでいいのかななんて思ったりする。ただし僕はやっぱりこれからも、他人のことを腐女子と呼ばないと思う。


なんでかって、僕はそもそも腐女子という単語が好きじゃないのだ。なぜ「腐って」いなければならんのかと思うのだ。BLが好きな僕の幼馴染は生身の人間だが、冷蔵庫に入れなければ腐ってしまうのか?僕からしてみれば、BL漫画(や小説)がキモイと言われるのだとすればそれはエロいからであって、中高生が読むべきじゃないと言うのなら、おおっぴらにできる趣味じゃないと言うならば、それはやっぱりエロいからだ(当事者うんぬんの意見は当然あって然るべきですが、話が複雑化するので後で少し触れる他は取り上げていません)。


でも僕がほとんど読まないジャンルだから知らないだけでエロい純文学は(きっと)たくさんあるし、そもそも現代の真面目な(準「純文学」的な)作家さんはそういうエロい表現をよく使う。だけどこういった(準)純文学になれば、親や先生は「ためになるからどんどん読め」と言う訳だ。エロさを知らないのか、それともそれは付属品で純文学なるものに触れること自体がためになると思っているのか。



まあどちらにせよ、僕はそれがちょっとよくわからない。僕は準純文学のエロさが苦手だから一層そう思う(小5のときに読んだ「ダブルスパイラル」という医療サスペンス?ミステリー?に急にエロいシーンが出てきたときは騙された気分になった。もちろんストーリー自体は面白い)。


僕は質量のあるリアルな(生々しい)表現が苦手で村〇春〇さんの作品を完読したことがないし、作家さんの性別問わず大人な恋愛描写もあんまり、好きじゃない。少女漫画は読むけど、折角の甘いシーンで「世の中の女子はこういう展開が好みなのかな?」ってどこか冷静な自分がいたりする。



そもそもエロさで言うなら、僕はケータイ小説も文句を言われるべきなのじゃないかと思ってしまう。ピンクの可愛い表紙に騙されて、「横書きだけど読書嫌いな娘が本を読んでるならまあいいか」なんて思っていたら甘いのだ。高校生が河川敷であーだこーだしてたり不良の彼氏がたばこ吸ってたりする、そっちの方が僕は愕然だった。BLをだめだと言うならケータイ小説も批判されるべきだと思った。僕がそう思った当時、僕自身はBL作品として書かれたものを一切読んでいないので自分の擁護ではないつもりです。でも当時、BL読んだらハマるだろうなーと何となく感じながら実際にその棚に行ったことがなかったのは、腐女子というものに対する風評被害に会いたくなかったから、すなわち腐女子に対する自分の偏見だったと思います。


…というここまでは女子側のお話で、多くの男子(の世間)の中でAVって何か基本みたいなとこある気がしてるんですが、どうなんでしょうか。いやここで言いたいのはAVもやめろとかそういうんでなくて、BLキモイというならAVもキモイ。個人的には、世間一般にBLがキモイと言われるのはBLのエロさに、男子が「媒体に求めるエロさ」とちょっと似た質感があるからじゃないかと思わなくもない。もしそうだとするならば、腐女子の対義語として、腐男子とは「AV大好きなオタク」さんか、もしくは「GLのエロさが大好きなオタク」さんであるべきだ。男の人が(自分を題材にされてるようで)BLはキモイというならば、AVを見るのをやめた方がいい。男子同士に何させてんの?って言う意見も見るけれど、男子が見るAVが無言の肯定で許されてるなら、別にBL好きな子がいてもいいんじゃないかなーと思います。


当事者に失礼だという意見に反論したいわけじゃない。僕は正直、AV撲滅運動にもBL(GL)撲滅運動にも興味はないけれど、BLその他を完全擁護するつもりもない。当事者うんぬんやBLの是非についてのお話は『再会』の中にもそういったくだりがあります。なぜBLを題材にしてはダメで男女の恋愛は題材にしてもいいのか。僕は純君たちの言葉に納得して腑に落ちましたので、気になる方は読んでみてください。



なので僕はBL好きの友達、とは表現しても腐女子とはなるべく言わないようにしてるし、自分のことも腐女子とは思わない。子供がエロいBL(商業BL)を読むのがダメだと言うなら、その辺の本屋や図書館に堂々と並べられている官能表現のある小説全部ダメだし、ケータイ小説を読んでいる娘を温かく見守っているどころではない。嗜虐的な描写がダメなら、うん、あんまりよくないかもしれないけれど別に全部の作品がそうではないしそれを言い出したらAVもダメだ(僕は見たことないけど)。同性であることがダメだというなら僕は理由がよくわからない。なぜ、ヒロインが体育館裏の倉庫でスカートをめくられるケータイ小説、不倫三角関係を描いたハードカバー、障害のある人との恋愛映画はOKで、同性同士の恋愛はダメなのか。当事者に失礼だと言うのなら、確かに(一部もしくは多数の作品において)それは正しい。じゃあどこからはマイノリティへの理解や認知度を高める素晴らしい作品で、どこからが失礼なのか。現実問題、それは作者(や出版社)や受け取る側が自分の価値観で決めるしかなくて、同じことはAVにも言える。つまり現実問題イタチごっこで、無くなりそうもないコンテンツな訳だ。


オタクという肩書はある種の世界の中でステータスであるから、本人がそう言うのはいいと思う。でも外側から「世界を簡単に」して腐女子と呼んでいる気がして、僕はあんまりその単語が好きではない。エロいBLを読んで昼休みにニヤニヤしてる女子を腐女子と呼んで馬鹿にするなら(僕は出会って数ヶ月のクラスメイトに「お前腐女子だろ」って言われたことあるけど流石に失礼だと思った)、昨日見たエロい夢やAVの話で盛り上がっているクラスの大概の男子のことを腐男子と呼びたくなる。


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ちなみに、AVを見ない人もいると思いますし、別に見てる人が嫌いとかそういうわけではないです。僕の中で男子の下ネタ事情が主に高校時代の情報で止まっている主な理由は、多少の年を取って分別を身につけた人が多いからでしょう。分別は大事です。『再会』の中でも書かれていますがBLの話は教室で堂々と話すことではないと思うし、AVは教室で(女子やら多数の前で)話すことじゃない。リアルの人でBL妄想、も僕はあんまり好きじゃないです(考えてしまうこと自体がダメとまでは言えない)。それって、クラスの男子が「あの巨乳の女子とどうやったらヤれるか」って盛り上がってるのとおんなじですよね(これもBl妄想同様考えるなとまでは言わない)。



そういうわけで最近はあんまり、男子のエロ事情が聞こえてくることはない。けれどあの当時僕が垣間見た男子の世界(世間)が高校生だけのものとは思えなかったのも事実で、今でも仲のいい男子と話しているときや、飲み会など何かの拍子にその世界の鱗片が見えることは大いにあることです。



目の前の相手が男子か女子かなんて、性別なんて、本当はその人が何者であるかには全く関係がないのだと思うようになった一方で、男子の社会で時間を過ごしてきた人と、女子の世界で生きてきた人、僕のように大きな集団には属さず、男子とも女子とも何となく仲良くしてきた人とでは、多分何かが違うのだろうと感じることがあります。それは、生まれ持った性格や素質ではないけれどその人の価値観に影響を与えるものであったはずなのです。その傾向の違いは、何となく性別と相関関係があると思っています(同性だけの社会における価値観との相関関係であり、因果関係ではありません)。


その傾向に自分が分類されてしまうこと自体に不快感を抱いた方がいたらごめんなさい。僕の中にも偏見があると思います。偏見を不快に思うのは当然のことです。ごめんなさい。

感じている方も多いと思いますが偏見(価値観)はそう簡単に変わるものではないと思います。苦手な価値観の記事を読み続けるのは大変なことです。そんなときはそっと見るのをやめてフォローも外して大丈夫です。いつか僕の価値観が変わって読める記事が増えたら、またフォローしてくださると嬉しいです。





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長い文章でしたが、最後まで読んでくださった方、ありがとうございます。


良い一日になりますように。





最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。