【短編小説】ゆるやかな夜の気配
*この作品は、決して明るいとは言えませんが、僕が眠れない夜に読みたいのは、きっとこういう物語です。もし何か感じるものがあったなら、後書きまで目を通していただけると幸いです。
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『ゆるやかな夜の気配』
冬は気分が落ち込むけれど、「」たくなっても耐えられた。本気で「」に近づくのは決まって暑い夏の夜だった。一人暮らしのマンションの15階、玄関を開けても誰も待っていてくれない、薄暗い部屋。
ベランダにつながる窓の、カーテンの隙間から街の光が漏れている。
その光に惹き寄せられる夜は危ない。
わかっていて部屋の電気をつけたいとは思わなかった。カバンを置いて汗が気持ち悪いシャツを脱ぐ。裏地が太腿に張り付くスカートをソファに放って、タンクトップと短パンに着替えた。電気もつけないまま、部屋の蒸し暑さと大して変わらない熱帯夜、ひとりベランダに出る。
目下の街はまだ生きている。コンビニのライト、テールランプ、歩行者。まるで水槽の中の世界を眺めているみたいに、誰も私に干渉してこない。缶ビールを開け、意味もなく結露をふき取る指先だけが、ここで生きてるみたいだった。
今、指先だけで世界に引っ掛かっている。蒸し暑い、あの夜のように。
ベランダから、部屋の中、ソファの脇に置いた鞄をじっと見つめる。携帯の通知ランプが光ってあの人の名前が表示されないか、少し期待する。連絡なんて来ないのはわかってる。でも期待していればどうにかこの世界に執着できる気がした。
自分だけ別の世界に来てしまったみたいに、ぬるく、風すら吹かない夜の気配に生気が吸い取られていくようだった。その感覚を、私は知っている。
そろそろ、部屋に戻って電気とクーラーをつけて、カーテンの外の生ぬるい世界から遠ざかった方がいい。
数年前、この部屋じゃない別の部屋で。同じように蒸し暑い熱帯夜に、ベランダで街を見下ろしたのを思い出す。あの夜は本当に救いがなくて、今日と同じ明日が来るのがつまらなく思えて、ベランダから“生きている世界”をぼんやり眺めていた。
小さい頃得意だった鉄棒の前回りみたいに、ほんの少し身を乗り出せば。そうすれば私はこのつまらない明日から抜け出せるのか、と。
それは恐怖や不安や諦めからくるものではなく、ただ、夜が醸し出す「」の雰囲気に惑わされるのもいいと思えたのだ。それはあの生ぬるい夜に触れた確かな「」の感触だった。誰にも連絡せず、何の言葉も残さず、未練も躊躇もなくこの世を去っていく人の気持ちがわかった気がした。
あの夜、ベランダで私が「」に触れるのをやめたのは、ふと部屋の方を見たとき、携帯の通知ランプがぴかぴかと点灯しているのが目に留まったからだった。ただ、それだけ。あのときの、私を”こちら側”に引き戻した一件の通知に、私は確かに救われたのだと思う。
あの人の、『鍵忘れた』とたったその一言に。
もう会いもしない。部屋も変わってしまった。それでもあのときの通知が、今もまだ私をこの世界に留めている。
空になったビール缶を持って、蒸し暑い部屋に戻る。気が変わらないうちにと、窓も閉めずに部屋の電気をぱちんとつけた。カーテンを閉めクーラーが働き始めてやっと、近づき過ぎた「」の気配が消えた気がした。
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(後書き)
これは僕が確かに抱いていた感覚だった。中2,3の頃、僕が一番「」に近い感覚に触れていた、溺れるような、救いのなさの象徴の記憶。一人暮らしのマンションのベランダで静かに街を見下ろす後ろ姿と、生きることへの執着のなさ。このイメージを抱いた十数歳の僕は、その執着のなさが一番怖いと直感的に理解した。もちろん、これは本気で「」と思ったことがない僕が描いた想像の世界だ。でも、何故かもわからないまま、ただただ浮かんだこの「夜」の感覚に、あのころ自分が怖かった。誰にも言えない、この夜の物語をようやく文字にできたのは、その感覚に惑わされないように、部屋の電気をつけられる冷静な自分がいることをもう知っているから。
それだけだ。惑わされないわけでも、忘れたわけでもない。
誰にでも、少なからず「夜」は訪れるから。
この物語には、救いがあるとは言えない。
でももしこの感覚を知っているというならば、部屋の電気をつけてくれる誰かを期待して眠るのではなく、自分で電気をつけて、眠れぬ夜に堂々とケーキでも食べてほしい。
私は、飛び降りようとしている人を止めることができない。
ずっとそう思ってきた。今だったそうだ。「生きることは尊い」とか「いつか報われる」とか、「生きててよかったと思える日がくる」とか。そんな言葉、もう信じられなくなったらただの質(たち)の悪い冗談でしかない。「生きててほしい」と言うことはできたとしても、届かなければそれまでだ。止めようと手を伸ばしても、救えないときってあると思う。
この物語は、人を救うためのものじゃない。ただ、かつて確かに触れたように思った、記憶の中の「夜」を忘れないうちに残しておきかっただけ。
絶望した人を、救う術はない。
誰も隣に立てない。隣に立ったらそれはもう、ほとんど手を離しているのだから。それでも、「その夜」を知っている人の言葉は、触れたらきっと何となくわかるもので。
僕の描く世界は虚構だ。その虚構の世界では、”私”を引き留めたのは誰かの叫びでも涙でもなく、誰かの今日に織り込まれた、生きている”私”の残り香のような気がした。けれど、そうやって僕が虚構でしか描けないものを、まるで今そこに存在するかのように描き切ってしまう人は確かに存在する。あの、夢の中のようにゆるやかな夜の気配を。
この後書きは、中途半端な自分の自己満足だ。けれど、
誰かの夜を掬う、優しい音楽や物語、誰かの伸ばす手に、救われる人がいてほしいと思う。
貴方の明日に、明るい色がありますように。
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暗めだけど時々聴きたくなる曲。こうやって並べると闇を感じますね…
順に
傘村トータ『明けない夜のリリィ』feat. Fukase
Amazarashi『僕が死のうと思ったのは』カバー/そらる
ピコン『死ぬにはいい日だった』feat. 初音ミク
色葉カエデ『振り返る先があなたの居た素敵な世界で良かった。』feat. 留音ロッカ
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最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。