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世の中はマイノリティを嗜好品にしすぎている、けれど僕もまたマジョリティの一人だ

僕は小説が好きだけど、マジョリティである自分の目線から「悲劇」「拒絶」と「再生」「理解」を美化してはいないかと恐怖するときがある。

「引きこもり」「不登校」「再生」なんて表紙やタイトル、帯にあったならつい手に取ってしまうし、こういう話好きだなって思ってしまう。同性愛が絡む作品も好むし、「理解してくれる人なんかいない」「自分は独りだ」「誰も自分を見てくれない」から始まる孤独な主人公が大事な人を見つける、誰かが自分を見つけてくれる、そんなストーリーが好きなのだと思う。

(きっと僕こそ誰かに見つけてもらいたいのだろうね。片思いしかしたことがない僕は誰かに「特別」と思ってほしくて、僕を見つけてくれる誰かに、僕の漠然とした不安や僕の価値観やつい考えてしまうことをただ聞いて受け止めてほしいのだ。)


ただこういった作品に触れて思うのは、僕は悲劇のヒロインを美化してはいけないということだ。障害の有無や同性愛、引きこもり、いじめ、拒絶。そういう作品の主人公に一部感情移入して、報われる展開に疑似的な幸福を感じてもいいだろう。でも、それが「マジョリティの嗜好品である」という前提を忘れてしまってはいけないと思う。もちろん、『図書館戦争』のまりえちゃんのように、難聴の方が聴覚障害を題材にした作品(有川浩『レインツリーの国』・文乃ゆき『ひだまりが聴こえる』等)を楽しんでもいい。でも、楽しめない場合(楽しめない作品)もあると思う。すでにこの記事の表現が不快である可能性もある。それを僕はいつも気にしていたいのだ。


作品に丁寧に向き合い、取材や自身の経験を通して、そういったいわゆるマイノリティに真摯に向き合っていると感じる作品もたくさんある。反対に描写が軽すぎて(作品を面白くする道具として扱ってる節が気に食わなくて)、売れているからと読んでみたけど結局読み切れないものだってある。でも、それすらマジョリティ側にいる僕の目線でしかない。僕が堂々と「これは丁寧に描かれて違和感なく楽しめる素敵な作品だと思う」と誰に対しても言っていいのは、双子が登場する作品くらいだ。

だって僕が当事者なのだから。双子って別に悲劇とかと関係なくない?と思われるかもしれないがそんなことはない。双子の一方を悪の道に連れ込んでみたり、どちらかが死ななければ進めない展開にして犠牲にしてみたり。まったく世の中は双子を嗜好品にしすぎている、と思う作品は結構見かける。それが本題ではないから作品としては好きなものもあるけどやっぱり不快というか、(妹の言葉を借りると)「作者の意図よりずっと深刻に受け取ってしまう(そして落ち込む)」のは否めない。



恋愛系(LGBTQが関連した作品)については、「美化」だけじゃなく僕自身が性別(や恋愛)って何だろうって考えることがある点も関係して興味があるのだと思います。追記として、BL作品や百合作品が現実とはかけ離れたある種ファンタジーであることは理解しているつもりです。そのうえで、社会の「普通」「常識」を疑う(疑わざるを得ない)登場人物たちが抱える疑問や誰かへの問いかけに、はっとさせられることがあるのも事実なのです。自分と価値観が違うなと思う方はそっと読むのをやめてしまってください。




以下、好きな作品(漫画含む)や読んだことのある作品の紹介

不登校・引きこもり系
天沢夏月『拝啓、十年後の君へ。』
葦舟ナツ『ひきこもりの弟だった』
杉井光『神様のメモ帳』


恋愛系
浅原ナオト『彼女が好きなものはホモであって僕ではない』
藤野恵美『ぼくの嘘』
ぽむ『先輩はおとこのこ』(漫画)
吉村旋『性別「モナリザ」の君へ』(漫画)
横槍メンゴ『クズの本懐』(アニメ)

その他(障害・死別・差別など)
河野裕『昨日星を探した言い訳』
竹宮ゆゆこ『知らない映画のサントラを聴く』
葵遼太『処女のまま死ぬやつなんていない、みんな世の中にやられちまうからな』
文乃ゆき『ひだまりが聴こえる』(漫画)
佐々木ミノル『中卒労働者から始める高校生活』(漫画)
駄犬ひろし『その笑顔好きじゃない』(漫画)
有賀リエ『パーフェクトワールド』(漫画)


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高校のとき文芸部で小説を書いていた。そのとき、病気を抱えた子の小説を書いた女子に対して、心臓の持病のある別の子が少しきつい言葉で批判していた記憶がある。普通こんなに明るくなんて振舞えない、こんなこと言われたら嬉しいどころかイライラする、だから○○(有名な小説)も理解できないしなんで売れてるのかわからない等々。

小説を書いた子の方も別に悪気はなかったのだし、持病持ちの弟を参考に書いたらしいけれど。つまり嗜好品としてマジョリティが楽しめる作品でも、当事者からすれば現実離れした夢物語で、むしろ捻じ曲げられた事実が許せないことだってあると思う。僕は『ひだまりが聴こえる』が好きだけど、その中の表現に共感できない人もいるかもしれない。
だけどマジョリティ側であろう僕からすれば、主人公に耳が痛いことを言われて自分の振る舞いを振り返ってしまうこともある。


太一に、航平を紹介してくれ(恋愛的な意味で)と頼む女の子がいる。そのとき太一が話の流れで航平に聴覚障害があることを伝えた場面でのこと。(『ひだまりが聴こえる』一巻)

『「リングベルの神様」に出てくる彼みたい…!』
『主人公の女の子が事故で聴力を失った男の人と出会って恋をするって物語の小説なんだけど 私超ハマっちゃって!』
『何もできない彼のために尽くす主人公がいじらしくって!』
『手話で会話とか憧れてたんだけど今までそーゆー人周りにいなかったから』
『私も物語の主人公になったみたーい』

これを聞いて『勝手にそんな小説と同じにすんなよ!』と太一がキレるシーンだった。


これはほんと太一の言う通りだと思うんだけど、自分の中に少しでもこの無邪気な女の子のような気持ちがないと言い切れるか、と聞かれたら僕は絶対にないと断言できるだろうか。(*この女の子のような考えをしてしまうことを、冒頭で「悲劇のヒロインを美化する」と表現しています。)



不登校の子に優しくしてその結果自分にだけ気を許してくれたら、それって小説みたいだ、なんて。
障害がある子に分け隔てなく接する自分はいい奴だ、なんて。
LGBTQに偏見なんかないよ、と言いながら実は同性同士のカップルを見たらぎょっとするかもしれない。同性のカップルを認めてる自分は広い価値観を持ってるなんて優越感が1ミリくらいあるかもしれない。



そう思われるかもしれないこと、そう思っている自分がいないとは言い切れないこと。そう思っていないつもりでも、当事者からすれば僕も「嗜好品を楽しむマジョリティ」に過ぎないかもしれないということ。そういうことを、思考の外に放棄してしまったら僕は「わかった気になって(多数派という)安全地帯から正義を振りかざすマジョリティ」に成り下がって一生抜け出せないだろう。



安全地帯から平等を訴える、そういう気持ちが悪いねっとりした正義が嫌いだ。河野裕『昨日星を探したい言い訳』に出てくる男性教師がまさにその典型だった。僕は自分がそうなっていないか常に気をつけていたいのだ。それが正解だと信じて(僕からすれば)歪んだ正義を振りかざす大人にはなりたくない、でも別の視点からすれば今の僕は既にその歪んだ正義をもつ者なのかもしれない。



堂々巡りだけど、とりあえず、「ただの嗜好品として」軽く扱うのはきっとよくない。でも僕はBL作品もよく読むし、『性別「モナリザ」の君へ』はいろいろと深い発言(主に白銀くん)に考えさせられて好きだし、以後読むな、やめろと言われるとそれも困ってしまう。現実ではないファンタジーだと理解したうえで「マジョリティの嗜好品だ」ということを忘れないように読む(見る)、ということくらいしか思いつかない。

それに、マジョリティがマイノリティを軽視した作品ばかり、というわけでもない。そういった難しい話題を取り上げ上手く表現した作品をきっかけに徐々に偏見がなくなっていくものかもしれないとも思うし。ただしやっぱりここで僕はマジョリティなので適当なことは言えないけど。



先に言っておくと、僕は差別や偏見を「社会から」なくそうとする運動に興味がない。人を動かそうという意図のある活動(運動)って、要は自分の正義(価値観)を広める活動ですよね。それが僕にはどうしても合わないのだ。許せるのは、第三者の視点で(公平に)現状を概説し「皆さんはどう考えますか」と問う形の講演までだ。それ以上のもの、講演の内容が既に自論の正当性を証明するためのデータに偏っている、とかになると僕の思考回路が全面的に拒絶する。

話が反れてしまうけど、僕は血を見るのが苦手なのだ。だけど大学にやってきて献血への協力をお願いするおばさんは、僕にもしつこく勧誘してくる。健康なら献血するのが当然の務めだと心底思っている顔で。ごめんなさい、って僕はいつも思う。確かに僕は献血できるけど、「顔も知らない誰かのために」献血しようと思えるほどには、勇気も覚悟もないし献血車を見ただけで心臓がバクバクするくらいには苦手なのだ。貧血を起こして倒れるほどじゃないし本当に困ってる人がいるのは知っている、でも献血が平気な人の価値観で僕に献血を勧めないでくれ。そう思ってしまう。まったく正義感も価値観も本当に厄介なやつだ。


話を戻すと、そういう「人を動かす活動」に参加する前に、僕は「目の前の誰か」を偏見や先入観なしに理解したいのだ。


妹が以前とてもいいことを言っていた。
「社会からすべての偏見をなくすなんて無理だと思うんだよ。ひとつひとつの問題(マイノリティとマジョリティを区別する仕切り)を取り払ってマイノリティなんて存在しない、全員同じだって言ったとしても、マイノリティ(少数派)ってどうしても存在するじゃん。結局その社会(偏見は全て取り除かれましたと宣言した社会)だって一部のマイノリティを黙らせているだけだよね。」

「だから私たちがすべきなのは社会の偏見を撲滅させようとすることじゃなくて、目の前の誰か一人と向き合って、その人の理解者になることなんじゃないか」って。そうやって自分の日々に存在する誰かを一人ずつ理解する、そっちの方が僕は性に合っている。





余談
***

引きこもり系に惹かれるのはきっと、高校時代の彼があまり学校に来なかったから。

学校に来ないってどういう感覚なんだろう??僕だって受験のストレス(不安)とか日々の漠然とした不安とか「僕が僕ではない」という焦燥感を覚えて、学校に行きたくないことだってあった。でも行かなければいけないのだと思っていたし、家族を心配させられないし心配させるほどじゃないしって、ずる休みしたことは一度もない。

でもきっとそういうことじゃないんだろうなって思う。君が、学校に来ないのはなんでなんだろう?学校に来た日は楽しそうにしてるけどやっぱ「登校する」のに気が乗らなくて家にいるんだろうか。それなら、気が向いたとき(家を出る勇気と気力があるとき)だけでいいからたまに学校来てほしいなって思うのはそれも押し付けだろうか。でも僕は君の価値観に触れている時間が好きなのだ。


家から出ないこと、仕事や勉強をしないこと、学歴が低いことを、馬鹿にする気持ちは僕にはない(もしかしたら他人はそう受け取ってないかもしれないけど)。あまり他人には言わないんだけど、僕の父親は高卒だし今は仕事をしていない。でも僕にとっては何でもできる凄い「お父さん」なのだ。小さい頃はキャンプに連れて行ってくれた。釣りが上手い、絵が上手い。ネックレスが壊れたら直してくれる、失くしたものを見つけるのが早い。ラーメン屋の餃子レベルの美味しい餃子を焼く(具から作る)、チャーハンが美味しい。まだまだいっぱいある。


不登校を馬鹿にするのは父親と高校の彼を馬鹿にしているのと同じだ。だから僕は絶対に馬鹿になどしてないんだけど、心境を理解しているか否かは別問題だ。換気して朝の空気を部屋に入れたい僕と換気に関心が低い父親と。怖くてずる休みできない僕と、開き直っている君と。だから何を考えてるのか気になってしまうのかなって思う。そして僕は、周りなんか気にせず堂々としててほしいし何か楽しいことをして笑ってるとこが見たい(部外者の僕が簡単に言ってしまっていいものではないのだろうけど)。

でもそれら全部、僕がマジョリティ側から頑張って考えてみたというそれだけで、決してマイノリティの立ち位置から見える世界を体験できるわけではない。


僕らは大抵の場合マジョリティだ(確率的に)。


マジョリティが適当に触れていいものと悪いものがある、きっと。そういう考えに至って僕は軽く絶望する。小説の中で不登校のあの子を救ったのも、心を閉ざした彼を連れ出すのも、別のマイノリティに属す誰かか、マジョリティのくせに偏見も先入観もなく物事を受け取れる異端児かのどちらかだ。つまり、平凡なマジョリティである僕は誰のことも救えないのだろう、という結論に至ってしまう。それでも、誰かの手を取るただ一人にはなれなくても、理解者くらいにはなれたらいいのになあ、なんて思うのは許されるだろうか。


最後まで読んでくださりありがとうございます。読んでくださったあなたの夜を掬う、言葉や音楽が、この世界のどこかにありますように。明日に明るい色があることを願います。どうか、良い一日を。