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千住のコンポジション 〜その奥へ〜

ぼくの目が、千住のまちの空間構造について、見て、歩いて、考えてきたこと。少しまとめてみます。

江戸、東京、千住

江戸四宿のひとつとして栄えた千住は宿場町。1625年に建設され、日本橋から2里(約8km)に位置する初宿。日光街道、奥州街道へ続く江戸の北の玄関。隅田川の舟運が盛んで河岸と街道が交差するため、たくさんの人やモノが行き交った。
約400年後の現在。舟運が鉄道に変わったものの、時代の変化をまちの中に刻み続けている。品川、内藤新宿、板橋、そして千住。江戸から東京へと変化を許容しながら、千住ほど原型を留めているまちはないのではないか

千住の空間構造.001


時間、コンテクスト

1594年、隅田川に最初に架けられた「千住大橋」。当初の位置は現在より200mほど上流だったらしい。これは千住の繁栄においてターニングポイントだ。1625年、徳川家康の街道整備により千住宿が設置されると、人が動く「道」とモノが動く「川」の交差点、交通と流通の拠点となった。江戸を支える機能を担うまちになった。

現在からみた千住をかたちづくるモノを時間でプロットした。こうしてみると、橋、街道、河川などのインフラを骨格としながら、屋敷や銭湯、近代建築に至るまで、さまざまな時代の断片をまちのあちこちに共存させている
まちの中に「時間」を「記憶」することで、千住のコンテクストに多様性や複雑性を与えている。そしてこれが「下町」という言葉では言い尽くすことができない、千住の魅力の本質なのではないか。

千住の空間構造.002

建築的な視点でポイントをいくつか挙げる。
1929年、旧千住郵便局電話事務室。分離派の山田守が設計。日本武道館、聖橋などが代表作。建物は現在もNTT東日本の事務所として使用されている。山田守の作品は現存するものが減っており、山田の作品としても千住のアイデンティティとしても残していきたい建物。

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1935年、千住緑町同潤会戸建住宅地。京成電鉄による土地区画整理事業の一部を同潤会が開発。表参道ヒルズにあった青山同潤会アパートのような集合住宅ではなく、職工向け住宅と言われる労働者の住宅地。現存する建物はなく、残念ながら記録のみだと思われるが、同潤会と千住のつながりは残すべき記憶だろう。

1970年、北千住常磐通り防災建築街区造成事業。現在の都市再開発法の前身である防災建築街区造成法により整備されたRC造3階建ての長大な建物。老朽化が進んでいるがまだまだ現役。テラスハウス型の建物は、この狭い路地に小気味よいリズムと表情を与え、千住の飲み屋横丁(通称:飲み横)を形成する千住らしい景色のひとつをつくり出している。

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浮世絵の中にも千住がある。美術や文学の中に現れる千住も継承すべき姿だろう
1830年ごろ、葛飾北斎が富嶽三十六景で描いた「隅田川 関屋の里」。1616年に石出掃部介吉胤(いしで かもんのすけ よしたね)が築いた「掃部堤」を疾走する早馬。千住がまちに「記憶」を刻み始める。
このほかに、富嶽三十六景には「武州千住」「千住花街より眺望の富士」、全部で3つの千住が登場する。

東京歴史文化まち連F20210505千住(資料・北斎画).001


通りのまち、表と裏

旧街道に面した間口が狭い短冊状の敷地は、現在の通りをかたちづくる重要な要素。この敷地は空間的な奥行きをつくり出し、「通り」に対して「表」と「裏」という概念をまちの中に展開していた。
このうなぎの寝所のような敷地を、旧街道に面して店、住居があり、その先に土蔵、納屋などがあり、さらにその先には賃貸住宅があり裏通りに面して賃貸店舗が立ち並んだ。地主は大家であり、その居を「表」に配置し、敷地の「裏」を資産活用していた。このように敷地と建物がずらっと街道を挟んで並び、「両側町」を形成していた。現在も、千住は住所や町会が「通り」を挟んでまちを構成している

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現在の空中写真を見てみると、隅田川と荒川に囲まれて、ぎっしりと建物で埋め尽くされているが、場所によって市街化が様子がずいぶん違う。最も幅員の広い国道4号線や南側の隅田川沿いは、比較的大きな建物が立ち並んでいることがわかる。一方、旧街道はほかの場所とあまりかわらない小さな建物で埋め尽くされているが、東西方向に短冊状敷地の名残りが建物の形状や配置から読み取れる。

千住の空間構造.003


その奥へ

もっとよく見る。千住のまちの部分を切り取ってみる。かつて旧街道を中心として短冊状敷地が背後に裏通りを抱えて、表・裏の空間を構成をつくり出していた。裏通りの外側はおおむね田畑が広がっていた。

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千住の空間構成で面白いのは「奥性」だと思う。通りから奥へ伸びる道のいくつかは参道であり、その先に寺や神社がある。旧街道の表・裏の空間に加えて、宿場町の先に神聖な寺社が配置されることで、日本の空間認識における「奥性」の概念が体現されている。また、参道は縁日などで日常とまったく違う様相を見せるため、極めて今日的に求められている公共空間の姿を見せてくれる。ちなみに、当初、寺社の周囲は田畑であったろうが、現在はもれなく住宅などが埋め尽くしている。

千住の空間構造.004

戦災により大きな被害を受けながらも、まちはこのまま市街化した。旧道より広い道路はほとんどなく、大規模な敷地もあまりないため、ドラスティックにまちが変わることなく現在に至っている。JR東日本の駅別乗車人員だけ見ても北千住駅は全国10位。これだけ利便性が高い駅を有しているエリアであるのに、奇跡的に旧家の屋敷や蔵が残り続けていたのは、開発のしにくさが要因にあるのではないか

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法的な観点でも見てみる。建築基準法42条道路を見てみると、短冊状の敷地の間のすべてに道路があるわけではない。裏から表へ伸びる道路のほとんどは法42条2項道路である。この道路沿いの建物の多くは建替え時に道路中心から2m敷地をセットバックさせて道路を拡幅する必要があるため、建築敷地の狭小化が避けられない。また、法42条2項道路は裏から表に貫通していないものもある。これは旧街道沿いの表の敷地であっても、裏手の建物の通行権があるなど接道以外にも相隣関係による建替えの課題を抱えている可能性も考えられる。

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時間への敬意、時間の共存、記憶

近年、旧家の屋敷や蔵が急激に現象している背景に、相続などを契機としたマンションなど開発動向の高まりがある。それらの開発はまちにとって悪いことばかりではないだろう。道路など都市基盤が未整備のまま市街化したいわゆる木造住宅密集地域は、いつ起きてもおかしくない大地震への備えとしては不十分かもしれない。しかし、都市は、まちは、一朝一夕にはいかない。千住もまた一日にしてならず、だ。

もっと「時間」に対して敬意を払うような仕組みが必要なのではないか。

過去から現在の「時間」を共存させる方法があるのではないか。千住がこれからもまちに「記憶」を刻み続けていくにはどうすればいいのか。地震や浸水など自然災害を耐えるだけではなく、しなやかに受け流すように対峙することができないだろうか

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もう少し考えてみたい。

(例えば、コーリン・ロウの著書「コラージュ・シティ」でいうところの「コラージュ的なアプローチ」など、二者択一的でない、共存していく方法に千住のまちの未来があるのではないか、と思う。)

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