菊の花
玄関の菊の花を見た。買ってからもう二週間はたっているだろうか。 白と薄紫の菊の花弁は全部ひらいて、こぼれる前の花の重みをささえる茎も、花器に満たされた水を吸い上げるのに充分な堅さをいまだ保っている。
菊の花をぼんやり見ていたら、ふと、三年前にメキシコヘ行ったときのことを思い出した。季節はちょうど今頃である。メキシコでは、いくつかの教会を見学する機会に恵まれた。そして予期せぬことに、私はいずれの教会の中へ入っても、祭壇に供えられた菊の花の数々を見ることができたのである。その光景は、仏花として菊の花を供える習慣のあった私のステレオタイプな感覚を、ふわっと浮き上がらせてくれ、新鮮だった。
菊の花は世界中で栽培されている。メキシコで親しまれ、教会で供えられていても、不思議なことではないはずである。よくよく、自分の身の回りの範囲で与えているイメージでしかその花を見ていなかったことに気づいた。
それ以来私は食傷ぎみだった菊の花が好きになった。
これ以上ひらきようがないくらいに咲いた菊の花にある時触れると、突然、すべての花弁がこぼれ落ちる。それはほんのわずかの力を必要とするだけで、気持ちの良いくらいばさっと落ちてしまうので、ついさっきまで咲き誇っていた姿を思い出そうとすると、一瞬頭がくらっとして、そのイメージは蘇らない。
菊の花は不思議な形状からくるイメージを人にもたらし、本当にあっけなく花を終える。そして花としての塊から数多くの花弁となった細かなイメージの断片が重さを失って、香りとなって地面をおおうようである。
(現代美術作家)
©松井智惠
2022年7月16日改訂 1994年11月11日 讀賣新聞夕刊『潮音風声』掲載