感想:映画『アグネスと幸せのパズル』 幸せになるための「家庭崩壊」

【製作:アメリカ合衆国 2018年公開】

アグネスは夫とふたりの息子とともに暮らす敬虔なカトリック教徒の女性。家事に明け暮れ、食料品・日用品の買い物と教会以外の外出をほとんどしない彼女は、誕生日プレゼントにパズルをもらう。
パズルに熱中し、新しいものを買い求めるために久々に街に出た彼女は、パズル早解きの王者であるロバートと知り合う。
彼とペアを組んで大会出場を目指すことでアグネスの視野は広がり、家族との関係にも変化が現れる。

本作は競技としてのパズルを扱った作品である一方、女性(特に「妻」や「母」)に対する抑圧や、この抑圧によって成立する「理想の家庭」が持つ危うさを描いている。

アグネスの家庭はコンサバティブな視点から見れば「幸せ」と捉えうる。
自動車修理工場を経営する夫、大人しく甲斐甲斐しい妻、長男が家業を継いで次男は大学進学予定、湖畔に別荘を持ち、教会の行事(=地域コミュニティ)に頻繁に参加、という状況は、「古き良き伝統」を守ることを主眼とする価値観や家父長制においては理想的な構図といえるだろう。
しかし、実際には工場の経営はうまくいっておらず、アグネスは夫ルーイーとの生活に抑圧を感じ、「後継ぎ」の長男ジギーはマッチョイズムに馴染めず、本当は料理を仕事にしたいと思っている。
話が進むにつれて家庭の均衡は崩れていく。アグネスはパズルに熱中してから家族に嘘をつき、ルーイーへの不満を口にするようになり、最終的には家事や行事もおろそかにして、ロバートと不倫をする。
この状況は一面的には「家庭崩壊」だが、彼女が自我を獲得するために必要なプロセスであることが作中では示される。

冒頭の、自分の誕生日パーティーの準備を自分でするアグネスのシークエンスをはじめ、彼女の自宅は光の量を抑えて撮影されており、とにかく暗い。どんな場面でも陰鬱なムードが強調されていて、アグネスが家族に尽くす生活に形のない不満を抱えていることがわかる。
アグネスが物置で過去に遊んでいたパズルを見つけ出す際には、暗い部屋で窓から差す一筋の光がパズルに向けられ、彼女にとってパズルが救いであると示される。

限られた範囲で暮らすアグネスは新しい情報を取り入れ、価値観をアップデートすることに消極的だった。
家族からiPhoneをプレゼントされても最初は使わないので不必要と言うほか、ニュースを観ないため災害や事件について知らなかったり、息子のガールフレンドがヴィーガンだと説明されても理解が及ばず、肉を出すといった描写もある。彼女がニュースを観ない理由は、「暗い内容が多いから」という夫ルーイーの意向であると示唆され、耳障りの良くないことや自分の価値観にそぐわないものを異化して現状に満足することの歪さを表す。
彼女はムスリムの発明家でもあるロバートとの交流をきっかけに視野を広げ、従来と別の視点を得たために、家族に尽くすことに意味を見出せなくなり、ルーイーの言葉にも異を唱えるようになる。
女性が自我を持ったり勉強することに対し、「可愛げがない(なくなる)」などと表現されることがあるが、アグネスの変化を通してそういった女性に対する支配的な価値観の存在が浮き彫りになる。
ロバートとの不倫関係についても、扇情的な演出が排されており、「寂しくて他の男性に惹かれる」といった消費の仕方を拒む姿勢が窺えた。セックスにつながるキスシーンも官能性が排され、自己解放のための切実な手段という色合いが強いのが印象的だった。(シャンパングラスが割れる破裂音で場面転換が行われ、ウェットな情感が抑制されている)

アグネスは必ずしも清廉で誠実な人物ではなく、知らないことを問われた際にごまかしたり、自分の思い通りにいかないときに八つ当たりのような言動をとる部分もある。当たり前のように家事を指示するルーイーにわざと丁寧に返答して、自分が女中扱いされているとほのめかすところなどはやや嫌味っぽくも感じたのだが、こうした良くも悪くも人間らしい生々しさのある表現が、作品で描かれる抑圧の普遍性を強調していた。
ルーイーもアグネスに一途で、彼女の意見を完全に突っぱねることはしない一方で、ステレオタイプを内面化してモラルハラスメントを行うという人物で、わかりやすいキャラクターとしての記号化は避けられている。
この環境で育ちながら息子達はコンサバティブな価値観に染まらず、それなりに時代に適応しているようにみえるのも興味深かった(インターネットネイティブだからだろうか……)。働き者ではないためアグネス目線ではあまり良いように描かれない次男ゲイブも、異教徒でヴィーガンのパートナーとチベットに行きたいと言い、母の変化にも好意的であるなど、しっかり物事を考えているように見えた。

パズルそのものの性質に触れた描写はあまり多くないが、ロバートがパズルを好む理由を「私たちが生きる現実は混沌(カオス)だが、パズルはどんな誤った選択をしても最後には正しい答えができあがる。ひとつの世界を統制できる感覚がある」というのはわかりやすかった。これは現実が制御不可能であることも意味する。
人物描写の重層性や、アグネスの罪悪感も相まってあまり後味は良くなく、たとえ家庭から離れてロバートの元に行っても、未来永劫の平穏はありえず、常に状況は変化し続けると考えられる。しかし、たとえ苦しみを伴っても固定観念に留まらず、世界が流転していると知り、その中に身を投じて変わり続けるのがあるべき姿であり、一種の「幸せ」だと示す作品だった。

邦題が作品の展開やトーンにそぐわないのが気になった。ドラマというジャンルは、作中の人間関係を通じて普遍的な価値観を問い直していると思うのだが、邦題で頻出する「●●(人物名)の〜」とか「私の/僕の」という語は、それを個人のエピソードに矮小化してしまう印象がある。
原題『Puzzle』は、遊びとしての「パズル」のほかに、「当惑」「混乱」「困らせる人」といった意味も内包していると思われ、よくできたタイトルなだけになおさらもったいないと思う。

アグネスの状態に応じて様相が変わるキッチンなど、ディテールも緻密に描かれた作品だった。
個人的にはアグネスのiPhoneの着信音が「きらめき」なのが、新しい機種を手にしたのでひとまずカスタマイズしようとした形跡があることに加え、アグネスの性格や社会的に自分をどう見せたいかなどを反映したリアリティがあってツボだった。

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