感想:映画『恋は雨上がりのように』 恋の魔法を分解する
【製作:日本 2018年公開】
高校2年生の橘あきらは、アルバイト先のファミリーレストランの店長・近藤に恋をしている。
店長は45歳。歳の離れた相手ではあるものの、あきらは積極的に彼に好意を伝え、当の近藤はその思慕への応え方がわからず戸惑う。
あきらは陸上部のトップ選手だったが、アキレス腱を断裂し、希望を失っていた中で店長と出会い、レストランで働き始めたという経緯があった。彼女に競技に戻ってきて欲しいチームメイトやライバルの言葉や、自分自身の未練にあきらは揺れる。近藤もまた、長年の夢である小説家をあきらめきれない状態にあり、直向きなあきらの姿を見て自らを見つめ直していく。
「先生と生徒」の恋愛関係を描くフィクションが多く存在するように、歳の離れた相手への憧れや思慕は普遍性のある題材だ。異性愛の場合、男性が歳上で女性が歳下という構図がよくみられ、若い女性(を消費すること)を価値あるものとみなす考え方も相まってか、この関係は頻出する。
本作は「歳の離れた相手への恋」「女子高校生に強い好意を寄せられる45歳の男性」という、上記の雛型に従った設定を用いながら、恋愛感情が現れた経緯を丁寧に描くことで、自明のものとされがちな人生における恋愛の位置づけを捉え直す作品だ。
あきらはアキレス腱を断裂して気持ちが落ち込んでいる際に、近藤の接客によって少し元気づけられ、それをきっかけに彼を追いかけるようになる。
あきらは年齢差や社会からの目線、「同世代に魅力を感じてしかるべき」という価値観にとらわれず、ひたむきに好意を言葉にする。しかし、それでも彼女の恋は、陸上の挫折による穴を埋めるための代替物という側面が大きい。
周囲の期待や再起の可能性があろうと、本人の中で折り合いがついているのであれば、あきらめて切り換えるのも確かな選択のひとつだが、彼女には未練が残る。また走りたいという気持ちと、これまで通りには走れないという恐怖から目を背けるための執着対象として近藤が選ばれる。
近藤自身がそのことを早い段階から看過していて、あきらが陸上部に戻るための後押しを一貫して行う。
近藤は大人としてあきらを見守り導く役割からほとんどブレを見せない、極めてしっかりとした人物像である。あきらの好意を利用して虚栄心や性欲を満足させることは行わず、自分の発言のデリカシーの欠如はその場で反省し、謝罪する。
彼がすぐに客に対して謝罪することが序盤で揶揄されるが、「45歳の男性」であることを踏まえると、謝罪や反省を躊躇わないこと、立場を利用した威圧的な振る舞いを行わないことは得難い点だと思う。
また、同性間の関係も丁寧に描いた作品であり、あきらの幼なじみで同じく陸上部のはるか、あきらの走りを見て意欲を取り戻し、アキレス腱断裂を克服したみずきの心理や、近藤の同期で有名作家のちひろとのやり取りも異性愛と同等以上の熱量を持つものとして示される。(あきらにもらった大量のガチャポンのストラップをひとつ残らずカバンにつけるはるかの姿は愛おしかった)
「歳の差のある恋愛」に付随する記号的なイメージを超え、人間どうしの感情のやり取りをどれもが重要なものとして描いた点で、とても誠実な作品だと感じた。
この映画では、背景を捉え、人物の全身を映すロングショットと、人物の表情を至近距離から捉えるクロースアップが多用され、その間に位置するミドルショットやバストショットは相対的に少ない。あきらの陸上選手という設定、怪我の部位から足元の映るショットが多くなるという作劇上の理由が考えられるほか、ロングショット→クロースアップ→人物の発話、という流れはその言葉の唐突さや勢いを演出する効果がある。これはあきらの近藤への思慕が素直で強固なものであること、作中で近藤が憧憬の対象とする「若さ」を表現する。
このように勢いをつけた映像表現を行うと同時に本作は言葉も重視しており、唐突にみえる感情の発露にも明確な理由づけがなされる。
序盤のあきらは無表情で口数が少なく、店員として接客するときも、自分に好意を向ける吉澤をあしらうときも、意中の人である店長と接するときもすべて同じ態度とみなされる。
特に店長は、あきらが自分を見つめてくることを「睨んでいる」と解釈し、彼女の口から好意を伝えられるまでは嫌われていると勘違いをしていたほどだ。
言葉にして感情や意図を表現することの重要性が本作では強調され、あきらの直截的な言葉に感化された近藤は小説家という自身の夢と向き合うようになるほか、競技への未練が強いものの、失敗を恐れてアルバイトと恋愛に逃避しているという彼女の状態も周囲の人物によってしばしば言語化される。
中でも近藤は文学を好み、小説家を志望するという背景から、修辞を多用した言い回しを多く用いるのだが、これらについては台詞としてやや浮いた印象を受けた。おそらく映画と漫画のメディアの違いで、吹き出しのコマに書かれた文字としてすべての言葉がフラットになる漫画では、日常的な会話とこうした良くも悪くも「青臭い」台詞が均質なものとして伝わり、受け入れられやすいのだが、映画においてはテンポの良い日常会話とのギャップが際立っている印象だった。
なお、本作における「文学」の描き方にはやや違和感があった。
上述の通り、近藤はプライベートでの軽口はあるものの、社会人としてかなりしっかりした価値観と姿勢の持ち主で、その思考や行動は非常に現代的である。しかし、大正〜昭和の純文学を好み、万年筆の手書きで原稿を書こうとする人物が28歳年下の少女に迫られた際に取る言動としては「誠実すぎる」とも感じた。
もちろん、近藤の態度や言動は適切だし、近代文学に傾倒した上で、作品の質の高さと作家の破天荒な私生活を紐づけるような考え方を乗り越えようとしているのであれば画期的だと思う。ただ、彼の離婚の理由が「小説家になるために家族を捨てた」ということなのもあり、人物像にはややブレがある印象だった。
そうした振り切れないところもまた人間らしさといえるし、ひとまず形から入るものの信念がそれに従っていないところが、彼が小説家として芽が出なかったことを裏付けているとも考えられるが……
近藤の情熱の対象が文学であることの必然性があまり感じられなかったのも違和感の理由かもしれない(具体的に登場する作品が『羅生門』のみで、基本的には文芸部における人間関係や図書館での本の選び方など、周縁的なことが語られる傾向にあった)
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