感想:映画『ブレックファスト・クラブ』 檻の中の邂逅

【製作:アメリカ合衆国 1985年公開 (日本公開:1986年)】

それぞれ問題を起こし、土曜日の補習に集められた5人の高校生。スクールカーストでバラバラのグループに属し、普段は関わることのない彼らが、徐々に邂逅していく様子を描く。

現代の「青春」ジャンルでは、スクールカーストを大きく取り扱う作品がよくみられるが、その源流のひとつが本作だ。
異なるグループに属する者どうしの交流そのものは、『アメリカン・グラフィティ』など先行する映画にもみられるが、学生のグループ間の階層構造や断絶にはっきりと言及した点が画期的だったのだと思う。

5人を構成するのは社交的なクレア、レスリング部のトップ選手アンドリュー、勉強に熱をあげるブライアン、不可解な行動を取る「変人」アリソン、素行の悪いベンダーで、このうちクレアとアンドリューはカーストが高く、ブライアン・アリソン・ベンダーは低い。
互いの名前もおぼろげにしか知らない状態から物語は始まる。

本作の特徴として、人物のクロースアップと切り返しショットを多用し、大半の場面が会話で構成される点がある。登場人物が月曜から金曜までどんな仲間とともにいて、どういった生活をしているかは台詞で触れられるのみで、回想シーンはない。
5人はそれぞれカーストの典型を反映した人物像である一方、土曜日の補習の場では日頃の関係から切り離された、独立した存在でもある。個としての彼らは、ありあまる時間を尽くして自分達について話すことで打ち解ける。これは前向きな展開であると同時に、時間や所属する組織、周囲のまなざしに追われる状態では壁は築かれたままであるという現実を逆説的に示してもいる。
大半の場面は補習の会場である図書室でのもので、舞台劇のような印象も受けた。(一度全員で学校からの脱走を試みるが、同じ場所で堂々巡りをした挙句に校門に鍵がかけられており失敗する。これは後述する、彼らが学校という枠組みから逃れられない状況とリンクする)
また、感情の昂りを示すシーンではロック調の激しい音楽が用いられる一方で、序盤の誰も話さないまま時間が過ぎるシーンや、終盤に5人が自分の内心や背景を打ち明ける場面にはBGMがなく、環境音と台詞のみで構成される。これが視覚的な変化の少ない映像にメリハリをつけており、同時に本作が会話シーンを生々しくみせることを重視していることも示す。

この映画で印象深かったのは、5人の邂逅はスクールカーストの構造そのものを変える力を持たないことが示唆される点だ。
最後には冗談を言い合い談笑するようになった彼らだが、カーストの高いクレアは、自分とアンドリューは月曜に登校したら他の3人を無視するだろうと言う。ベンダーも、遊び仲間にアリソンを紹介できるかと問われ言葉に詰まる。
自分達を「ブレックファスト・クラブ」と称し、次の土曜日も補習に来ると宣言する通り、彼らは5人の間に生じた友情を決してその場限りのものだとは思っていないが、かといって普段ともに過ごす仲間に堂々と紹介できる訳ではない。少なくともしばらくの間は、彼らは土曜日だけの親友(あるいはカップル)となると想像できる。
作中ではクレアとベンダー、アンドリューとアリソンが互いに惹かれ合う。不良×お嬢様、体育会系×冴えない女子の組み合わせは普遍性があるんだなぁと感じ入ったが、特に後者については双方の心の動きにやや無理があり、性急な印象だった。
(作中の会話からセックス経験の有無が学校内でのステータスになっていることがわかり、パートナーを欲することは彼らにとって自然な起結ではあるのだが)

また、作中における価値観を示す描写は、1985年当時の若者に向けた作品としては新しかったのではと思う。
ベンダーのクレアに対する性的なからかいが否定されない一方で、アンドリューやブライアンが語る補習を受ける経緯からは、マッチョイズムや勝利至上主義、ステータス重視といった価値観による抑圧への批判が窺える。5人全員が家族とうまくいっておらず、親に与えられたあるべき姿とのギャップに苦しんでいるところも現代的と感じた。

なお、本作ではインテリジェンスが人生においてあまり意味がないとするような描写もみられる。
図書室で作文を完成させることを課題として与えられた彼らはまったく言うことを聞かず、ベンダーに至っては蔵書を破り捨てる。図書室でマリファナを吸ったりダンスを始める様子や、勉強のできるブライアンによるブルーカラー差別、異様にプライドが高く利己的な教師の人物像は、いわゆる「学校の勉強」に対する反抗を表す。
(こういう「ガリ勉」への風刺は『いまを生きる』など他の青春映画でもよくみられるが、個人的にはかなり苦手な描写でもある。学び考えることの軽視だし、機転が利かず真面目に生きるしかない人間もいると思うので…)

冒頭でデヴィッド・ボウイの「若者が変化しているときに説教をしても無駄だ。なぜなら若者は変化を自覚しているのだから」という言葉のテロップが映るが、若者の側に立ったこの文言すらもガラスのように砕かれる。
とにかく自分達を俯瞰して把握したような言葉を投げかけられることを嫌う姿勢がここにはある。

また、前述した通り、彼らは自分達を縛る家族や学校の仕組みに反感を持ちつつも、そこから逃げるという選択肢を持たない。
特にアリソンやベンダーは学校に来ない、辞めるといった行動を取りそうな人物像にも関わらず、律儀に補習に出席している(ふたりがいなければ本作は成立しないので、この設定を疑うと元も子もないのだが)。
5人にとって学校に通うことは自明であり、彼らの反抗や自由の希求も、あくまで与えられた条件の範囲内に留まる。一方で、この枠組みがなければ、異なる趣味や背景を持つ人間の邂逅が起こる可能性はとても低くなるという側面もあり、「制約がないこと」がすなわち「視野/世界の拡張」につながる訳ではないというのが複雑な点だと思う。

レスリング部がマッチョイズムの象徴として扱われることや、家族とうまくいっていないにもかかわらず、4/5人は家族の車で学校に送迎されている(彼らが枠組みの中にいることを裏付ける描写でもある)ことなど、端々にみえるアメリカ合衆国の学生文化も面白かった。

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