感想:映画『茄子 アンダルシアの夏』 限りなく人間に近い機械、限りなく機械に近い人間

【製作:日本 2003年公開】

スペインの自転車ロードレース「ブエルタ・ア・エスパーニャ」。出場選手のひとりである主人公ペペは、レースのコースが出身地・アンダルシアであることで俄然意欲が湧いていた。
レース開催日は彼の兄アンヘルと、かつての恋人カルメンの結婚式当日でもあった。
夏の暑さの中レースは白熱。そして、ふたりをはじめとした故郷の人々が沿道に集まる前をペペは駆け抜ける。

自転車という乗り物の特質が表れている作品だった。
人間がペダルを踏む力がダイレクトに推進力となる自転車は、人間と機械をリニアに結びつける装置といえる。運転手の情動、疲労などが如実に機械の動きに反映される一方、運転手である人間もまたガソリン・エンジンとして機械と一体化する。
互いの出方を窺いながら群れて進行する集団は、3DCGやコピーを用いて表現されていることもあり、無機的な印象を与える。彼らの単調な呼気がリズムを刻み、それが自転車の駆動音であるかのようだ。選手たちは心拍数をモニタリングされ、イヤホンで監督達から指示を与えられて動く。チームスポーツであり、伴走する運営管理車からひとりの選手が水をまとめて受け取り、他の選手に配っていくことや、全選手トータルでの記録向上を目的としたペース配分の調整も行われ、管制に従った規律的な動きが求められる性質がある。また、ゴール時はコンマやミリ単位の差となり、映像判定が必須の競技であることも示唆される。

その反面、個々の選手間の小競り合いの中では、それぞれの表情から疲労度を読み取り、時折は駆け引きも含め声をかけ合うなど、互いのコンディションが見え、その変化が自転車の速度に即座に反映されるというこの競技の「人間」的な側面がみえる。ゴール直前ではラストスパートをかける選手達の顔がクロースアップで正面から映され、何重にも重ねられた描線と歪み誇張された表情が、選手のエネルギーの発露や身体性を表す。

本レースはテレビで実況中継されており、順位や選手名等のテロップが入り、中継車やヘリコプターから撮影したようなアングルの映像が多用される。また、それらは選手の表情のアップや回想といった、「神の視点」から登場人物の心理を追うショット、POVショットなどの臨場感を強調するショットと織り交ぜられる形で使用される。このように、異なる性質の映像を接続する手法は、スポーツとしてのレース・心理劇としてのレース・ドキュメンタリーとしてのレースを併存させ互いを増幅していて面白かった。
また、機械によって無機物に魂を宿らせるアニメーションのメディアとしての性質は、自転車競技における人間と機械の接続に近いものがあり、その意味でも興味深かった。

故郷をひた走るという行為はペペ自身のアイデンティティの整理と再発見という側面もあるのだろうが、背景の描写に乏しく設定が先行している印象があった。いわゆる「郷土愛」や「故郷に錦を飾る」という概念が個人的に苦手だというのも大きく、郷土料理の楽しみ方を登場人物が語るシーンなどはきつかった。
とはいえ、郷土料理「茄子のアサディジョ漬け」(実際の文化としては存在せず、原作漫画の創作レシピだそう)そのものは美味しそうだった。
ロードレース選手としての地位およびカルメンというトロフィーを兄弟間で奪い合う構図も、権威主義やホモソーシャルな関係性が窺えて旧弊的だと感じたし、全体的にストーリーは気になるところが多かった。

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