感想:映画『パッチ・アダムス トゥルーストーリー』 ユーモアと責任のマジック
【製作:アメリカ合衆国 1998年公開(日本公開:1999年)】
自死未遂をしたハンター・アダムスは、精神科に任意入院をする。ユーモアに満ちた会話や行動を好む彼は、幻覚で病室から出られない同室の患者を笑わせて外に出る手助けをしたことをきっかけに、医者として人を助けて生きていく決意をする。
病院でつけられた「パッチ(patch=あて布、絆創膏)」を名乗り、医学部に入学するアダムス。
座学を好まず、患者に直に接することを望む彼は、白衣を着て病棟に忍び込んでは、病院の備品を駆使して患者たちを笑わせる。
規則を重んじる厳格な学部長に睨まれながらも、トップの成績を修めるアダムス。彼は臨床可能となる3年生になると病棟の外に出て、仲間たちと誰でも足を運べる無料の診療所を開設するに至るが….…。
実在の医師を主人公に、患者にとって最も良い「治療」とは何か、を問う作品。
アダムスが掲げるのは「患者の生活や好きなものについて知り、彼らの望みや感情に寄り添い、生の質を高めること」だ。薬や装置による制約の多い延命よりも、患者が自らの希望通りに生きる方が、たとえ物理的な寿命が縮まってもQOLは高まる、という考え方である。患者について知り、その希望を叶える手段として「ユーモア」がある。
本作では患者を対象化して距離を取り、自らを権威づける既存の医者像に批判的なまなざしが向けられる。患者と対等で親密な関係を築き、彼らが前向きに過ごす手助けをするアダムスは肯定され、この二者は二項対立で示される。
しかし、医者を構成する要素として、「患者の命を左右する技術を持った者としての責任」と、「個々の患者の人生に大きく関わる存在として、彼らに寄り添う姿勢(これにユーモアが含まれる)」は両輪であるといえる。
本作は不可分の両者を物語上二項対立の構図に当てはめているため、ところどころに無理が生じていると感じた。
様々な規律や医師-患者の距離の保持と、患者の暮らしに真摯に向き合いQOLを向上させることは両立させるべきことであるにもかかわらず、作劇上のわかりやすさやカタルシスのためにそのことを伏せている印象を受ける。
最も顕著なのは、アダムスが医師免許を持たない状態で、保険料の高騰で思うように医療サービスを受けられない患者に対する無料でのクリニックを開設する一連の流れである。
終盤の放校処分をめぐる審議で、アダムスは無免許で医療行為をおこなっていたことを「患者の死につながる可能性があったと理解していたのか」と咎められる。彼の答えは「ただ寿命を延ばす(=死を遠ざける)のではなく、患者の生を高めるのが治療だ」だが、これはQOLの捉え方についての主張であり、無免許で医療行為をおこなうことの弁明にはなっていない。
医療に免許が存在する理由のひとつは、その行為に伴う責任を理解して仕事をしていると証明する必要があるからだと考える。治療目的で患者の身体を傷つけ、量や使い方次第で重大な影響を与えうる薬を投与することになるためだ。
アダムスが好まない座学で学生が大量の知識を頭に詰め込むのも、「知らないこと」や誤認、ミスが患者の死に直結するためである。
アダムスの学業成績が優秀であるという設定から、医師の責任の重さとそれ故の権威づけについては作り手も理解していると思われる。
しかし、従来の医師の在り方を克服するという作劇上の構図が前提にあるために、責任とユーモアの両輪は、シチュエーションに合わせて片方のタイヤがそれぞれ巧妙に隠されることになる。
また、前述の通りアダムスは医師と患者がフランクに、フラットに接することを目指す。アダムスに影響された同級生のカリンは、精神疾患の患者の訴えを親身に聞き入れようと患者の自宅に足を運ぶが、そのために患者に猟銃で撃たれ命を落とす。
医師と患者との心理的な距離が縮まることには、「医師はあくまで仕事として患者を治療している」という意識が乏しくなる可能性が伴う。だからこそ「患者に寄り添う」ことは困難といえるのだが、アダムスは彼女の死に責任を感じ苦しむものの、こうした問題の解決を目指すことは特に行わず、最終的には「医師と患者の関係を対等にする」という主張をそのまま続けていく。
アダムスの主張は患者を最優先に考えるものであることは確かだ。大半が患者の立場である観客は、アダムスの正当性が作中で示されることで治療への安心や希望を見出し、彼の痛快な振る舞いによって娯楽としても作品を楽しむことができる。扇情的なサウンドドラックなどの演出からも、観客のカタルシスをかなり意識した作品であることが窺える。
しかし、そうした「耳障りの良さ」を重視するあまり、アダムスの行動に内在する問題点を明らかにしつつも、それに真摯に対処することは行わないという本作のつくり方は不誠実だと感じた。
アダムスの「笑い」についても、病棟で患者のバックボーンを踏まえて行うものはポジティブだが、冒頭の精神病棟での、常に手を挙げている患者の仕草で「大喜利」をする行為や頻出するホモソーシャル的な性に関するジョークなど、とても「ユーモア」として肯定的に捉えられないものが多くみられた。(特に「大喜利」については、本人の意思が判断できない状態で笑いの種にしていることに加え、たとえ本人と意思疎通できたとしても、「みんな面白がっているから良いだろう」という同調圧力が働きやすいもので、「お笑い」の倫理的な問題点を体現したような描写だった)
また、ヒロインであるカリンは150人を超える学生のうち8人しかいない女性のひとりである。さらに性的虐待を受けていたため男性を信頼できず、恐怖心があるという描写もあるが、本作は医療の世界での男尊女卑については極めて淡白である。彼女の性被害の告白に至ってはその後アダムスとのラブシーンにつながるなど、いくら1998年の作品とはいえさすがに倫理的にどうかと思った。
医師がその責任の重さ故に収入が高く権威ある存在であることを、「社会的に地位が高く、医師でない人々をジャッジできる存在である」と履き違えたり、患者を類型的に捉え、断片的なプロフィールからその人を否定するような言動に至る(生活保護受給者やセックスワーカーへの差別的なまなざしなど)という状態は現代でもしばしばみられ、これらは克服されるべき問題だと考える。
医学生達が実際の糖尿病患者を目の前に、その症例からパターン化された治療法を提案する中、アダムスだけがその患者の名前を聞く……というシーンはこうした問題に触れている点だとも感じる。また、実務にあたる看護師を尊重している点などはとても良かった。
普遍的な権威への対抗意識と実際の医療現場で起こっている問題が混在しており、それゆえに歪みが生じている作品だと思った。