感想:映画『モネ・ゲーム』 水と油を混ぜる試みは良いのだが……

【製作:イギリス・アメリカ合衆国 2012年公開(日本公開:2013年)】

ロンドンの美術鑑定士ディーンは、雇主シャバンダーからの冷淡な扱いに耐えかね、モネの贋作を彼に売るこことで利益を得ようとする。
彼はシャバンダーを騙すため、絵画の持ち主として、米国テキサス州のカウガールPJ・プズナウスキーを選び、協力を仰ぐ。
しかし、ディーンの思っていたようには計画が運ばない。彼が様々なトラブルに見舞われながら、シャバンダーとPJの取引に漕ぎ着くまでを描く作品。

英国映画において、金髪でグラマーで「おバカ」という、ステレオタイプな米国人女性が、主要登場人物と対置されたり、トラブルを引き起こす舞台装置的な役割で登場することがある。
上品でウィットに富んだ英国人、物質主義で教養に欠けた米国人、という記号的な対比を利用したのが本作だ。
この映画の主演はコリン・ファースとキャメロン・ディアスである。
ファースは作中でスーツに身を包み、彼のパブリックイメージでもある「英国紳士」像を強調する。一方、キャメロン・ディアスは性的なジョークを含んだコメディ作品でキャリアを築き、英国映画で揶揄されるような「米国女性」像を体現した面のある人物である。彼女はカウガールとして登場し、そのイメージを増幅させる。
この映画はステレオタイプを並置させることで、固定観念を問い直すコメディである。
スムーズに計画を実行できず、スマートな振る舞いをしようとして失敗し、しばしば殴られて青痣をつくる格好悪い英国紳士と、マナーや知識には欠けるものの、独特の文化のもとで培った思考や視点を活かし、財界人とうまくコミュニケーションを取るカウガールの構図は、双方へのバイアスを明らかにし、風刺するものだ。
冒頭でディーンが計画が予定通り運んだ場合を妄想するシークエンスがあるが、この場面でPJは一言も喋らず、微笑んで彼の思うままに動く。これはディーンが彼女を見くびっていることの表れであり、本編でこの想定が次々に崩れていくことそのものが、ステレオタイプの転倒を象徴する。

上記のようなイメージの相対化を試みる設定は面白かったのだが、本編のプロットそのものはいまいちで、やたら服を脱ぐことで笑いを取ろうとするなど全体的に品がなく、最後にディーンがもうひとつの計画を進めていたというどんでん返し的なオチも含めて精彩を欠く印象だった。
ビジュアルや物語の構造面では対照性があるものの、ディーンとPJが直接価値観や思考をぶつけ合うシーンは少ないため、メリハリに乏しく、ふたりが信頼関係を築く描写にも説得力が薄い。
格好悪いコリン・ファースと、華やかで明るいキャメロン・ディアスの姿を楽しむ一種のアイドル映画とも捉えられるのだが、もっと上手い展開の仕方があったのではと思ってしまう。
モネの作品および印象派という題材、ナチスの接収によって行方不明になっていたことなども、物語を動かすためのツールに終始していたが、ステレオタイプや民族性といったテーマに絡めることもできたのではと感じるし、惜しいところが多かった。

なお、本作ではシャバンダーの取引先として日本の大企業が出てくるのだが、「お上りさん」的な振る舞いと低姿勢、計算高い内面というキャラクター付けがされている。ステレオタイプを題材にした作品なだけに、こう見えているのか…となんともいえない気持ちになったし、やはりこういうところに西洋のエスノセントリズムは残っているなとも思う。

Wikipediaを確認すると、本作は『泥棒貴族』(1966年)のリメイク作品であり、企画先行で主要スタッフを揃えて製作が始まるまでかなり時間がかかったとのことで、非常に豪華なキャストといいい、プリプロダクションの段階から多くの企業や利害関係が絡んだことが推測される。こうした映画の産業的な側面への理解は不足しているため、勉強していきたいと思う。

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