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月の砂漠のかぐや姫 第269話

 母親は娘の顔を思い浮かべました。真っ先に浮かんできたのは、彼女が元気にしていた時の笑顔ではなく、彼女が病気になってからずっと見せていた苦しげな表情でした。その娘の顔を思い出したとたんに、母親は急に胸が締め付けられるように感じられ、激しくせき込み出しました。病気の娘を一人で村に残してきたことへの負い目と彼女がいまも生きて自分を待ってくれているかという不安が、母親の心を槍でザクザクとつくように激しく攻め立て始めたのでした。
 母親は震える手をできるだけそっと伸ばして、風に揺れる薬草の茎に優しく触れました。母親の頬から滴り落ちる涙で、薬草の周りの地面にポツポツと黒い染みができました。
「お願いだよ。どうか死なないで、お母さんが帰るのを待っているんだよ」
 母親は心の中でそのように強く念じながら薬草を土から引き抜き、根に絡みついていた土を丁寧に落とすと、ギュッと胸に押し当てました。
 ヒュオオオッ・・・・・・。
 これまで母親の身体を叩いていた冷たい風とは明らかに異なる空気の流れが、山肌に沿って駆け上がってきました。
 母親は万が一にも薬草が吹き飛ばされないようにと、それを両手で胸に押し当てながら上半身を折り丸くなりました。
 そのため、母親は見ることができなかったのでした。
 たったいま急に湧き上った空に向かって昇る風の流れの中に、柔らかな黄白色の風と清らかな白色の風の流れが混ざっていて、その二つの流れが絡まり合いながら高く高く上がっていくところを。そして、その黄白色の風は自らの胸の中から、また、白色の風は胸に押し当てた薬草から生じていたことを。さらには、それらの風が昇っていくその先には、まるで母親の行動を見ているかのように青空の一角で薄ぼんやりと光っている月があったことを。
 強風は瞬く間に空へと駆け上がっていきました。身体を丸くして大事な薬草を抱え込み、目を閉じてひたすらに災い除けのまじない言葉を唱えていた母親は、身体に当たる風の勢いが元のように弱くなったことを感じて身を起こしました。
「また天候が悪化して、山を下りられなくなるかもしれない。風が弱くなったこの時を逃してはいけない」
 そのように思った母親は、自分が持ち歩いていた擦り傷だらけの皮袋の一番奥へ薬草を仕舞うが早いか、むき出しの岩肌が目立つ険しい山道を飛ぶように下り始めたのでした。

 母親の記憶を追体験している羽磋と王柔。それぞれが母親の目を通して周囲を見ているようでもあり、俯瞰した位置から全体を見下ろしているようでもありました。また、それだけではなくて、母親の意識とは離れてお互いで会話をかわしたりもできていました。
 この時、王柔は母親の気持ちに感化されて、「娘が病気に負けないで生きて自分を待ってくれているだろうか」という心配と、「一刻も早く薬草を娘に届けなければいけない」という焦燥感を、強く感じていました。同じ感情は羽磋の心の中にも生じていましたが、彼には他に強く気になったものがありました。それは、強風と一緒になって月に向かって巻き上がっていった黄白色の風と白色の風でした。羽磋には、それらが母親の胸と薬草から流れ出しているように見えました。
「あの風はなんだろう。黄白色と白色の風なんて、見たことが無い。ああ、ひょっとしたら精霊の力が働いているのかもしれないな。なにしろ、大昔から大いなる力を持つと語り継がれている薬草なんだから」 
 舞い上がった二色の風が精霊の力の現れであったとしても、彼がつぶやいたように母親がここで見つけたのは非常に不思議な力を持つと昔話でうたわれている薬草でしたから、その薬効が精霊の力によるものと考えれば、舞い上がった風にも精霊の力が現れていてもおかしくはないのかもしれません。それに、よくよく考えてみれば疑問を持ち続けても仕方がないのです。これは既に終わった出来事で、彼はそれを追体験しているだけなのですから。思い浮かんだ疑問を解く手段がない以上、なんとかそれなりの理屈を作り出して、それで納得して忘れてしまう以外にできることは無いのです。
 それでも、彼の心の奥底には、小さな違和感が残り続けていました。
「あの二色の風、精霊の力の現れだとしても、それが現れるのがどうしていまなんだろう。それを煎じて娘さんに飲ませるときなら、腑に落ちるのだけど。それに、薬草からだけでなくて、どうして母親の胸からも風が月に向かって上がるのだろう。なんだか、それで月が何かを知ろうとしているような気がする。でも、いや・・・・・・」





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