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月の砂漠のかぐや姫 第278話

 それでも「母親」の心の中には、「娘に会えるかもしれない」という希望が僅かながらにしても残っていたのですが、濃青色の球体の中に理亜を取り込み、娘とは全く異なるその姿形を目の前にしたいまでは、その様なものは母親の中から完全に消えてしまい、憤り熱いが血脈となって身体中を駆け巡るようになっていました。
 これまでの長い間、地下世界という変化のない場所で自分の中の悲しみと絶望だけを見つめ続けてきた結果、半ば母親はそれらの感情しか持たない精霊の様になっていました。でも、その激しい怒りの感情が彼女の凍えて鈍くなっていた心を鋭く刺激しました。自分の前で「お母さん」と呼び掛けてくる赤い髪を持つ異国の少女に、母親は「まだそんな大嘘を言うのか」と矛盾を突いてなじりましたが、そのように彼女が何かについて考えを巡らすことなどは、濃青色の球体へと変じて以来なかったことでした。
 そのような事を意図して理亜が行動していたわけではないのですが、結果として彼女は母親の中に眠っていた感情を揺り起こし、人間としての意識を取り戻させていました。
 相変わらず、母親の身体と魂は濃青色の球体という不思議な存在に変わったままですし、理亜や王柔、それに羽磋は、その球体の内部に飲み込まれたままです。でも、球体の内部で理亜と向き合っている母親の意識体は、その姿こそ通常の人間を何倍も大きくしたような異様なものではありましたが、それが理亜に向かって投げつける言葉の礫は、「血の通った人間の叫び」になっていました。理亜が「母親」に対して「お母さん」と呼びかけるのが正しいのかどうかはわかりませんが、そのことによって「母親」の意識が精霊の世界から人間の世界へ呼び戻されたということは、間違いがありませんでした。
 濃青色の球体の内部世界は、もちろん、現実の世界とは異なっています。そこは母親の意識の世界であり、彼女の苦痛と悲しみと絶望が、何度も何度も思い返されている世界でした。その世界へ取り込まれた羽磋と王柔は、川の上に掛かる枝から落ちて水に流されるしかない木の葉のようでした。母親が思い出す辛い過去の記憶を、与えられるがままに追体験するしかありませんでした。でも、その経験により、彼らがこの世界に馴染むことができたのも事実でした。それに加えて、理亜が発する言葉によって母親自身の意識が精霊界から人間界へと近寄ってきていました。そのため、彼らの方からも、この球体内部の世界に自分の力を伝えることができるようになってきていました。
 これまでの羽磋と王柔は濃青色の球体の内部世界を吹き荒れる暴風に煽られて空中を流されているだけでしたが、いまの二人はゴビの大地に両足をつけて立っていました。それは、この母親の意識世界に、彼らの日常の世界、すなわち自分たちが活動できる世界はこれだと言う意識が、ゴビの大地と言う形になって反映されるようになったためでした。
 濃青色の球体内部に飲み込まれたままであることには変わりはありませんが、いま彼らは、自分たちが見慣れたゴビの荒れ地にいるように思えていました。ただ単に、「母を待つ少女」の母親の過去を追体験するしかなかった時とは違い、自分たちはそこに一人の人間として存在していて、自分の意志で行動できるように感じられました。
 彼らが立つゴビには太陽が発する強い日差しを遮るものは何もなく、絶えることのない風が乾いた大地から赤茶色の砂を巻き上げながら通り過ぎていきます。離れたところに小さく見えるのは、いくつかの土造りの壁と屋根。それらは月の民が根拠地としてつくる村の一部のように見えました。
 ゴビの赤土が広がる地面はどこを見てもほとんど変わりがないように見えましたが、遠くの村の方からこちらの方へと、周囲とわずかに異なる色合いの筋が続いていました。どうやらそれは、遊牧の民や交易の者などが何度も歩いたことで作られた道のようでした。
 道の真ん中で赤い髪をした小さな少女が大きな声を出しています。村を背にして立ち、その少女に覆いかぶさるように両腕を振り上げているのは、どれだけ長い間着ているのかわからないほどボロボロになった衣服を辛うじて身にひっかけ、元の白色がわからなくなるほど赤土で染まってしまった頭布を髪に巻き付けた、大人の何倍もの背丈もある女性でした。
 王柔と羽磋には、その赤い髪をした小さな少女が理亜であると、一目でわかりました。同じように濃青色の球体に飲み込まれてはいたものの、これまでは理亜がいる世界と羽磋と王柔がいる世界は、近くではあるけれども同じではないようでした。でも、ここに来てようやく、二人は理亜に追いつくことができたのです。
「お母さん、あたしダヨッ。やっとここまで来たんダヨッ!」
 これまでよりももっと明確に、理亜の声が二人の耳に届きました。
「何を言うっ! ああっもう良いっ! たくさんだっ!」
 そして、理亜に対する母親のいらだった叫びや、言葉に込められた憤りの感情、それに、空気をビリビリと震わせるほど母親の身体全体から発せられている怒気も、これまでに感じていたものとは比べ物にならないほどの熱量で、二人の身体に伝わってくるのでした。
 






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