見出し画像

月の砂漠のかぐや姫 第265話

「なんだ、これはっ!」
「ええっ?」
 羽磋と王柔は、同時に驚きの声を上げました。彼らの心の中に、まるで複数の語り部から同時に昔話を聞かされているかのように、いくつもの場面が一斉に浮かび上がってきたのです。それらは、生じた順番などには全く関係なく、無秩序に浮かんでは消えていきました。でも、青い空気が胸をいっぱいに膨らませているせいでしょうか、彼らはそれそれの場面が何を意味するものかを、はっきりと認識することができていました。
 この地下世界に来る際に通ってきた洞窟の中で、そこを流れる青い水が見せたものは、それを飲んだ者自身の悲しみや恐怖の記憶でした。ここで青い空気が二人に見せたそれも確かに悲しみと絶望の記憶だったのですが、青い水が見せたものとは異なるところがありました。それは、青い空気を吸った羽磋たち自身が持つ悲しみの記憶ではなく、ある母親の悲しみと怒りに満ちた記憶だったのでした。

 青い空気が見せる記憶の持ち主である母親は、ヤルダンの近くにある村で遊牧隊が持ち帰る家畜の毛から糸を紡いだり、交易路を通る隊商の世話をしたりしながら、細々と暮らしていました。ゴビが広がるこの辺りの環境はとても厳しく、彼女の生活は楽ではありませんでした。彼女には保護者たる夫や親族はおらず、毎日、太陽が昇る時から太陽が沈む時まで働かないと生きていけませんでした。でも、彼女は特に自分が不幸だと思ったことはありませんでした。ゴビで生きる遊牧民族は多かれ少なかれ大変な生活をしていましたし、彼女には大きな楽しみがあったからでした。
 彼女には小さな娘がいました。彼女の楽しみ、そして、生きがいは、その一人娘の成長を見守ることでした。いつも自分に纏わりつくようにし、自分が働く様をぎこちない手つきで真似をするその娘の様子を見れば、働くことが少しも苦には感じられませんでした。どんなに身体や心が辛い状況に置かれても、娘が笑ってくれれば彼女は幸せを感じることができました。娘が彼女の全てでした。
 羽磋たちは青い空気を吸い込むことで彼女の記憶を垣間見ていましたから、彼らの心にもその想いは良く伝わり、彼女と娘との生活を見ている間は、彼らの心もぽっと暖かくなるのでした。
 ところが、ある年のことです。その村に悪い病気が流行りました。その病気はこれまで村で流行ったことが無いものでしたから、ひょっとしたら、遠くの国からやって来た交易隊が持ち込んだものかもしれません。医療が発達しているとは言い難いこの国では、病が流行り始めた際には、長老が過去の経験に基づき「これこれの薬草を飲むように」と言ったり、「病気になった者を村の外れに隔離するように」と指示をしたりして、それが大きく広がらないように対処していました。でも、新たに目にするこの病気には長老たちも有効な対処を取ることができず、次々と村人たちは病に倒れていきました。
 もちろん、彼女が自分の娘のことを心配しなかったはずがありません。娘が病気に罹ることをとても心配した彼女は、他の人から病をうつされることがないように、村の人々との付き合いを止めて自分たちだけで暮らしたいとまで考えました。でも、厳しいゴビの環境の中で人々が生きていくためには、水汲み等の日常生活や糸繰りや家畜の世話等の仕事で、お互いに助け合っていかなければなりません。完全に村から離れて、自分たちだけで生きていくことなどできないのです。
 大きな心配を心の中に抱えながら仕方なく共同生活を続ける中で、とうとう、彼女が恐れていたことが起きてしまいました。彼女の娘がその流行り病に罹り、高熱を発して寝込んでしまったのです。天幕の床の上に寝かされた小さな女の子が熱に浮かされて脂汗を浮かべながら苦しそうに荒く息を吐いているところが過去の一場面として浮かび上がると、それを見ている羽磋と王柔の胸に、ズキンッ、ズキンッと鋭く強い痛みが走りました。そして、彼らの心は子供への心配の他には何も入る余地が無くなってしまいました。それは、当時の母親の心境そのものでした。 
 それだけで事態は収まらす、さらに悪化することとなってしまいました。病に罹った村の人たちの中に、命を落とす者が現れ始めたのです。そして、彼女の娘の病は、回復の兆しを見せるどころか、増々ひどくなる一方でした。病気に罹った始めの頃は、娘は自分の体調の悪さを母親に訴えることができていたのですが、いまでは言葉を発することすら困難になって、宙に視線をさ迷わせながら、ただハァハァと呼吸をするだけしかできなくなってしまいました。
「このままでは、娘が死んでしまう」
 母親の、そして、いまは羽磋たちが感じていた心配は、現実的な恐怖へと替わました。母親の心の中には、巨大な鉄の球のようにずっしりと固く重いものが生じました。
「ああ、娘を助けてください。娘を死なせないでください。何でもします、そのためになら、何でもしますから」
 月の巫女や精霊の子はこの村にはいなかったので、母親は子供の命を助けてくれるように、月に対して一心に祈りました。その祈りが途切れると娘が死んでしまうのではないかとさえ考えるようになった母親は、たとえ月が出ていない時間帯であっても、心の中に白く輝く月を思い浮かべてそれに対して祈り続けました。恐怖に心を支配された母親は、もはや働くどころではなくなってしまいました。






この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?