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「月の砂漠のかぐや姫」これまでのあらすじ⑯(第78話)


 寒山の交易隊が立ち去ってから、長い時間が経ちました。
 彼らが出立したときに巻き上げられたゴビの赤土も、すっかりと収まってしまいました。
 いたずらな風が次々とやって来て、一人残された理亜の背を叩いては去っていきました。
 高熱に侵された意識の中で、彼女は自分の置かれた状況をどう理解していたのでしょうか。
 自分。置いて行かレタ。熱。熱い。オージュ、村。カアさん、村。オカアさん・・・・・・。王花さん。居る、オウカさん・・・・・・。
 切れ切れにではあるものの、理亜は王柔の言葉をきちんと受け取っていました。村に行けば、王花さんがいる。お母さん。オージュもいる・・・・・・。
 既に辺りは薄暗くなり始めていました。太陽は西の地平に近づき、月が上がり始めていました。
 長い時間休んで少しは体力が回復したのでしょうか、理亜はゆっくりと上体を起こすと、手にしていた皮袋から水を一口飲みました。
「イタッ・・・・・・」
 それは喉にひどくしみましたが、彼女の体に力を与えてくれたようでした。
「行かなくちゃ、村へ・・・・・・」
 理亜は力を奮い起こして立ち上がると、ふらふらとした足取りではありましたが、ゆっくりと歩きだしました。生き物の本能がそうさせるのでしょうか、まだわずかに橙の明かりが残る、西の空を目指して。
 でも、彼女が目指す土光村はヤルダン東側にあるのです。悲しいことに、その小さな足が震えながら踏み出される度に、彼女は王柔たちから遠ざかっていくのでした。


 やがて、夕焼けが残っていた西の空も、完全に青暗い夜空で上書きされてしまいました。
 太陽が沈むのを待ちかねたように東の空から上がってきた満月は、今では天上から周囲に青白い光を散らしていました。
 一歩ずつ、ふらふらしながら歩いていた理亜は・・・・・・。
 奮い起こした力もとうとう尽きてしまったのか、一歩も歩けなくなってしまい、砂岩に背中を預けたまま、動けなくなっていました。
 秋のヤルダンは、夜になると気温が下がります。彼女の背中を支えている砂岩も、すっかりと冷たくなってきていました。でも、高熱に浮かされてうわ言をつぶやいている理亜には、その冷たさも感じられてはいませんでした。
「はぁ、はぁ・・・・・・・、か、あ、さん・・・・・・」
 理亜の声はとても弱々しい上に、ひどくしわがれたものになっていました。王柔から渡された皮袋にまだ水は残っていましたが、もう彼女にはそれを口にする元気もなくなっていたのでした。
「あなたは、母さんを探しているの・・・・・・」
 その時のことです。
 どこからか彼女に語り掛ける声が、聞こえてきました。
 ここはヤルダン魔鬼城の中。周囲には誰もいないはずです。それに、彼女が座り込んでいる場所の空気を、誰かが震わせたわけではなかったのでした。そう、それは、実際にあった声ではなく、誰かが彼女の心の中に直接語り掛けてきた声だったのでした。
 でも、再び意識が混濁し始めた理亜には、そのような不思議にまでは気が回りませんでした。彼女は、淡々とその問いに答えましたが、実際に夜の世界に生れ出たのは、言葉ではなくて弱々しい吐息だけでした。
「はぁ、はぁ・・・・・・。そう、よ。カア、さんを探しテルの・・・・・・」
「あなたもそうなのね、わたしも待っているの。母さんを。もう、ずっと、待っているの・・・・・・」
 不思議なことに、理亜の言葉にならない吐息は、その言葉の主に届いているようでした。
「そう、なのね。ワタシが一緒に、捜してあげ、ヨウか」
「捜してくれるの・・・・・・あなたが。ありがとう・・・・・・。イヤ、モウ、クルハズガ、ナインダ」
 突然、理亜に呼び掛けていた声が、二つに分かれました。
「コナイヨ、オマエハ、ステラレタンダ・・・・・・違う、そうじゃない、違う・・・・・・コナイ・・・・・・来るよっ・・・・・・ヒトリダ、オマエハヒトリナンダ・・・・・・違う、違う、違うっ・・・・・・」
 その声はだんだんと大きくなり、冷たい夜の空気がびりびりと震えたように、理亜には感じられました。そして、鋭い棘がいくつも刺さったような痛みと、とても大事な何かを望み欲する乾きが、背中から彼女に流れ込んで来ました。
「ナ、ナニ?」
 反射的に理亜は砂岩から背中を離すと、自分が今までもたれかかっていた砂岩を見上げました。青白い月明かりに照らされたそれは、人の背丈ほどの高さの細長い奇岩でした。複雑なふくらみを持つその形は、まるで、少女が手を合せて誰かをじっと待っている姿のように見えました。
 月の民の勢力圏より遠く離れた西の国で生まれた理亜は知りませんでしたが、この砂岩こそが、ヤルダンを通る者たちから「母を待つ少女」と呼ばれる奇岩なのでした。
 母を待つ少女の奇岩は、他の砂岩から離れて、ポツンと立っていました。
 先ほどまで理亜の頭の中で響いていた声は、今ではまったく聞こえなくなっていました。
 すううっと、夜の冷たい風が、奴隷の少女と母を待つ少女の周りを、通り抜けていきました。
「ダイジョウブだよ・・・・・・」
 ぽつんと、少女がつぶやきました。
「王花さん、いるよ。オカアさん、いるよ・・・・・・。お水、あげるネ」
 どうしてそのような言葉が口から出たのか、少女にはわかりませんでした。また、どうして自分がそのようなことをしているのかも、わかりませんでした。
 理亜は、ゴビの砂漠を旅する者には命そのものとさえ言える水を、王柔からもらった皮袋を傾けて、母を待つ少女の足元に注ぎました。皮袋に残っていた水は全てゴビの大地に吸い込まれていき、皮袋の中は空になってしまいました。
「ね、大丈夫ダヨ」
 自分に語り掛けていた誰かを安心させたいのか、理亜はそう呟くと、自分も安心したかのように微笑みました。
「ネ・・・・・・」
 目を閉じて母を待つ少女の足元に横になった理亜の背中は、もう苦しげに上下はしなくなっていました。
 そのうちに、月の動きに従って少しずつ伸びた母を待つ少女の影が、身動きしなくなった理亜の体を飲み込んでしまうのでした。



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