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月の砂漠のかぐや姫 第267話

 母親は村を出ることを決意しました。
 娘の病が良くなったわけではありません。むしろ、その逆です。娘の熱は一向に下がらず、このままでは、その小さな体が耐えきれなくなりそうでした。
 では、どうして母親はそのような状態の娘を残して、村を出ることを決めたのでしょうか。そして、彼女はどこへ、何をするために、行こうというのでしょうか。
 それは、彼女が「どうか娘を助けて下さい」と懇願するために何度目かに長老を訪ねた際の事でした。この恐ろしい病に関しては長老にも何の知識もなく、風邪をひいた時と同じように「身体を休めるように」程度の助言しか与えられていませんでした。この病は村中に広がっていて、長老自身も適切な指示を与えてやれない自分に、忸怩たる思いを強く感じていました。そのためだったのでしょう、またもや良い助言を得られなかった母親が、がっくりと肩を落として天幕から出ていこうとする時に、彼の口から独り言がポロリと零れ落ちてしまったのでした。
「こんな時に、あの薬草でもあれば……」
 この独り言を耳にした母親はガバッと長老の方へ振り向くと、間髪入れずにその膝に取りすがりました。そして、「薬草ですか、それがあれば娘は治るのですか。教えてくださいっ、教えてくださいっ!」と、必死の形相で請い願うのでした。その時になって、長老は伝説でしかない万病に効く薬草の事を、自分がうっかりと口にしてしまったことに気がついたのでした。
 その薬草に関する話は、知識や知恵とは呼ぶことのできない程おぼろげなものでした。それは代々の長老に語り継がれた昔話の中に出てくるものであって、この長老にしても実際にそれを見たことがないどころか、それを使った者の話を聞いたこともありませんでした。それに、その昔話は村から遠く離れた祁連山脈を舞台としていましたから、「万に一つの可能性に掛けてその薬草を探す」ということも困難でした。
 そのため、「病を癒すことができるかもしれない」と希望を持たせた後で、すぐに「その薬草は幻のものなのだ」と絶望させることになってもいけないと考えた長老は、病を治す方法を聞きに来る村人の誰にもこの伝説の薬草の話はしていなかったのでした。ところが、この母親の熱意があまりにも強かったために、長老の口からこの伝説の薬草のことが、ついつい繰り言となって出てきてしまったのでした。
 長老を見上げる母親の目はギラギラと異様なほどに輝いていて、長老の膝を掴む指にもギリギリと強い力が加わっていました。もはや、この薬草の話をせずに母親を帰らせることはできないと、長老には思われました。
 長老は諦めたようにホウッと深いため息をつくと、「これは代々の長老に伝わっている昔話で、実際にあるかどうかもわからないのだが……」と断りを入れてから、伝説の薬草の話を始めました。
 それは祁連山脈の高地に生えると言われる薬草で、月の光を花の形にまとめたような、輝きを帯びた白色の美しい花弁を持つとされていました。厳しい寒さと激しい風に鍛えられ霊的な力を蓄えたその薬草はいくつかの昔話の中に登場し、それを手に入れた者が病の回復を祈りながらそれを磨り潰して病人に与えると、もはや死を待つしかないと思われている病人でも奇跡的に健康を取り戻すと語られていました。
 もっとも、それはどの昔話の中でも非常に希少な薬草とされていて、ある話ではそれを求めて王様が軍勢を山に登らせたが誰も帰ってこなかったとされており、また別の話では、それを購入するために他国から金銀を山のように積んだ荷車が月の民にやって来たとされているほどでした。唯一、登場人物がそれを手に入れることができた昔話でも、病気の妻を救うために祁連山脈に入った夫が、山襞の奥にある竹林に祭壇を設けて満月が欠け始めてから再度満月に戻るまでの間そこで一心不乱に祈った結果、ようやくそれを手に入れることができたとされていました。ただ、その話では、夫の姿はユキフクロウに変わっていたためにその薬草を咥えて病気の妻の元へ飛んで戻ることなっていました。やはり、たとえ昔話の中であっても、無事にその薬草を手にして戻ってきた者はいないのでした。
 薬草の話をし終えた長老は、心配して母親の顔を覗き込みました。話を聞き終えた時からずっと、彼女の身体がブルブルと震えていたからです。長老は、心配していた通り、この薬草の話を聞いた母親が大きな絶望を感じてこの場で死んでしまうのではないか、とさえ思ったのでした。
 でも、その長老の心配は当たっていませんでした。
 突然、母親は勢い良く立ち上がりました、あまりに前触れもなく立ち上がったので、覗き込んでいた長老の顔にぶつかりそうになるほどでした。母親は長老の右腕をギュッと自分の両腕で抱え込みました。その力は驚くほど強く、長老は身動きができなくなったほどでした。
 母親は興奮の極致にありました。それは、やっと愛する娘を助ける方法が見つかったと思ったからでした。彼女は長老の顔を見上げると、唾を飛ばしながら矢継ぎ早に大きな声を出しました。
「長老様、ありがとうございます! ありがとうございます! お陰様で娘は助かります! いえ、あたしが助けます! 今から薬草を取りに行ってきます! その間、娘をお願いいたします! ああ、嬉しい! 嬉しいっ!」






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