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月の砂漠のかぐや姫 第256話

「王柔殿、しっかりっ。こっちに来てください、さぁっ」」
「羽磋殿、すみません・・・・・・。痛いっ、肩がっ」
 揺れが弱くなっていたので、羽磋が王柔の元に辿り着くのに多くの時間はかかりませんでした。王柔は大きくて深い窪みのすぐ近くに倒れていました。その窪みは「穴」とも「亀裂」とも言っていいような急な傾斜と深さを持つものでしたから、地面に転がされた王柔がそこに落ち込まなかったのは、不幸中の幸いとしか言いようがありませんでした。
 でも、いつまた大きな揺れが襲ってくるかもしれませんし、王柔自身も左肩を押さえながらその場で転げ回って苦しんでいます。王柔の元に辿り着いた羽磋が始めにしたことは、王柔の身体を支えながらその危険な窪みから離れることでした。
 周囲に危険な窪みが無くて比較的平らな場所を探して王柔を横たえた羽磋は、素早く彼の身体の状態を確認しました。すると、王柔の左肩の関節で腕が抜けてしまっていることがわかりました。やはり、地面に叩きつけられた衝撃で、左肩が脱臼しているのでした。
 遊牧の際に馬から落ちて肩の関節が抜けてしまうことは稀にではありますが起こる事で、羽磋も大伴からその応急処置を教えられていました。ただ、実際に怪我をして苦しんでいる人の身体を使って練習をすることなどはできませんから、自分一人でその治療をしたことはありませんでした。それでも、この場で王柔の痛みを和らげることができるのは羽磋一人だけであることは言うまでもありません。羽磋は自分の心の中に迷いが生じる前に、行動を始めていました。
「王柔殿、腕が外れているようです。僕が戻しますから、ちょっと辛抱してくださいっ。ん、むう、うんっ!」
「ああっ、痛あっ! ハァハアッ」
 羽磋が大伴から教えられたとおりに王柔の身体と腕の角度を整えグッと力を入れると、やはり痛いのでしょう、王柔は大きな叫び声を上げました。その声の鋭さに思わず手を緩めてしまった羽磋の元から身体を半回転させると、王柔は左肩を右腕で押さえて身体を震わせました。
 王柔の反応を見て、「自分がしたやり方が間違っていたのではないか」と、羽磋は急に不安になってしまいました。
「ハァ、ハァアッ、ハァ・・・・・・」
「だ、大丈夫ですか、王柔殿! すみません、かえって悪くしてしまいましたか!」
「いえ、ハァ・・・・・・、だい・・・・・・丈夫です・・・・・・。ハフ・・・・・・。痛みが、おさ、まってきました。ありがとうございました、羽磋殿。本当に助かりました」
 まだ左肩を押さえてはいるものの、王柔の体の震えは徐々に治まってきました。ゆっくりと上半身を起こした彼の息遣いも荒々しいものから落ち着いたものへと変わってきました。どうやら羽磋の応急処理は上手くいったようで、焼け付くようだった王柔の肩の痛みは急速に消えていき、じりじりとした痺れのような痛みが残るのみになっていました。
「ハアアァアア・・・・・・。良かったです・・・・・・」
 王柔の横でしゃがみ込んだまま、羽磋は大きく安堵の息を吐きました。まだ緊張が残っているのでしょうか、地面についている羽磋の両手は、細かに震えていました。
「オージューッ。大丈夫なノーッ」
 二人の頭の上の方から、王柔の事を心配する理亜の声が聞こえてきました。彼ら二人はもう少しで丘に上がっていく急斜面に取り付くところまで来ていましたから、声がした方を向くために彼らはかなり上の方へと顔を動かさなければなりませんでした。
 地下世界の地面が急激に盛り上がって丘のようになっているその場所の上面の縁から、この世界ではひどく目立つ赤い色がぴょこんと飛び出していました。それは、理亜の赤い髪の色でした。丘の麓の方から聞こえて来た王柔の悲鳴がきっかけで自分を取り戻した理亜が、丘の上面に腹ばいになって二人の方を見降ろしているのでした。
 理亜が手をついている地面の際で砂岩の塊が砕け、いくつかの小さな破片が生じました。それは急な斜面を勢いよく転げ落ちると、地面にぶつかって砂に戻ってしまいました。丘のようになっている部分の地面の盛り上がりがあまりに急なので、両手両足を使ってよじ登ることはできても、それを下ることはとてもできそうにありません。理亜は大きな声を出して、王柔の様子を尋ねることしかできないのでした。
 地面に座り込みながら羽磋と話をしていた王柔は、理亜を安心させるため立ち上がりました。両手を振って応えることは流石にできませんが、脱臼の痛みはもうほとんど消えていて、大声を出すことはできるようになっていました。
「理亜―っ。大丈夫だーっ。僕は、大丈夫だよー。羽磋殿に治してもらったから、大丈夫だーっ。直ぐにそこに行くから、動かないで待っているんだよっ、理亜あっ」
 脱臼した腕を戻した肩で自分が急斜面を登れるかどうかなんて、王柔は考えていません。「理亜のことが心配だから、彼女の所へ行く」、ただそれだけを考えての言葉でした。
「うん、うんっ」
 王柔のその想いが理亜にも伝わったのでしょう。王柔に答える彼女の声は、先ほどの不安げなものとは違ってとても明るいものでした。






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