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月の砂漠のかぐや姫 第235話

 洞窟の中に風は吹いておらず、音としては川の水が立てるササシャ・・・・・・というものしか耳に入りませんでした。これまでにあまり意識したことはなかったのですが、ゴビの荒地に風が吹かない日はほとんどなかったので、風が肌に当たる感触やそれが起こす音を感じられないことも、羽磋たちの心を荒立たせ疲れさせる要因の一つになっていました。
 洞窟の両側も天井も床も、川の水を除けば全てが冷たい岩で覆われていました。後に戻ってもこの地下から出ることはできないとわかっていますから、彼らができるのは洞窟の奥へ奥へと進むことだけです。それも、食料が尽きた今となっては、身体が元気なうちにどんどんと奥へ進んで出口を見つけ、冒頓が率いる護衛隊本体と合流しなければならないのでした。
 でも、洞窟は川が放つ青い光に照らされているとはいえ、それはボウッとしたほのかな光ですし、洞窟そのものも真っすぐではなく曲がりくねっていますから、この先に何があるかを見通すことはできません。昨日の駱駝は奥へ走っていったと思ったら、恐ろしい形相をして戻ってきてしまいました。一体駱駝は何に出会ってその様な状態に陥ってしまったのでしょうか。ただでさえ未踏の洞窟の中を歩くのは危険だというのに、やはりこの不思議な洞窟ではどれだけ慎重に進んでも慎重すぎるということはなさそうでした。
「充分に気を付けていきましょう。先頭には僕が立ちます。理亜が真ん中で、王柔殿は一番後ろをお願いいたします」
 皆に話しかける羽磋の声は、とても緊張したものでした。彼は刀を手に取っていましたが、それは遊牧民族が日常的に使っている短刀ではなく、父である大伴から渡された小刀でした。刃渡りが肘から指先までの長さはある短刀に比べて小刀のそれは手首から指先ぐらいまでと短くはありましたが、このヤルダンの地下で刀を振う必要があるとしたら、かつて父が青海の竜を倒すのに用いたというこの小刀でなければいけないと、羽磋は感じていたのでした。
 洞窟の奥に向かって足を踏み出そうとした羽磋は、急に自分の正面に透明な膜が生じて、自分が前に進むことを拒んでいるように感じました。必死になって羽磋は前に進もうと足に力を入れるのですが、持ち上げたその足は同じ場所にしか降ろすことができなくなっていました。
「く、くそっ。しっかりしろっ」
 でも、羽磋が言葉をかけたのはその膜に対してではなくて自分自身に対してでした。彼の前に透明な膜などは生じてはいませんでした。自分自身の奥底にある何かが足を前に出すことを拒否していて、まるでそこに膜があるかのように進めなくなっていたのでした。どうしてそのようになってしまったのでしょうか。それは、洞窟の奥へ走り込んで消えた駱駝が、そこで何か恐ろしいものに出会ったかのように必死になって戻ってきたことを羽磋が覚えていて、洞窟の奥になにか恐ろしいものがいるのではないかと言う恐怖心が彼の心の底に生じていたからでした。羽磋の言葉は、それを自分でも感じたことから出てきたものだったのでした。
「何のために俺はここまで来たんだよ。奥に進むって決めたじゃないか。絶対にここを出ないといけないんだよ。輝夜のために阿部殿に会うんだからっ」
 羽磋はギュッと目を閉じると、心の中で自分自身に対して強く叫びました。彼の脳裏には、貴霜族の遊牧隊から逃げだした駱駝を探すため夜の砂漠を共に歩いた時に見た、輝夜姫の横顔が浮かんでいました。心の中の輝夜姫が視線を見上げていた月から自分の方へと向け何かを口にしたと思った瞬間、ガチガチに固まっていた彼の身体からすっと力が抜け、一歩前へと進むことができました。輝夜姫は羽磋のその様子を見るとニコリと笑って、さらに羽磋に対して何かを話したようでしたが、急に身体が動いたことにあまりに気が動転していたせいか羽磋にはそれが聴こえませんでした。「えっ」と羽磋が輝夜姫の方に意識を向けたときには、彼の心の中に浮かび上がっていた彼女の姿は消えてしまっていました。
 心の中で輝夜姫が励ましてくれたお陰でしょうか、それとも別の理由があるのでしょうか。いずれにしても、最初の一歩が踏み出せた後は、もう彼の身体が前へ進むことを拒むことはありませんでした。
 羽磋たちは、洞窟の奥へ向かって歩き出しました。
 洞窟の内部は昨日歩いてきた箇所と同じように充分に広くて、まるで交易路を歩くかのように背筋を伸ばして歩くことができました。この洞窟にはぼんやりとした青い光しかなく両側の壁や天井がはっきりと見えないのですが、かえって圧迫感を覚えることは少なく、狭苦しい洞窟を進んでいるというよりはむしろ薄暗い夜道を歩いている感覚に近いのでした。
 洞窟は緩やかに左右に曲がりながら奥へと続いていました。曲がり角の先は見通せませんし、左右の岩壁や天井は平らではなく複雑な襞を持っていてほのかな青い光が届かないところがたくさんありました。羽磋は目に頼ることを早々にあきらめて、何か変わった物音が起きればすぐに気が付くようにと、全身を耳にすると同時に息を潜めながら歩き続けました。
 その後ろを歩く理亜や王柔にも彼の緊張感はひしひしと伝わっていました。交易路を歩くときには「はんぶんなの」と鼻歌を歌っていた理亜も今日はそれを控えていましたし、王柔も羽磋に話しかけて自分の気を紛らわすことを遠慮していました。
 少しでも先へ。体力が残っている間に、少しでも先へ。彼らの思いは一つにまとまっていました。






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