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月の砂漠のかぐや姫 第270話

 母親自身は強風が吹いた時には目を閉じていたので、自分の胸と薬草から二色の風が巻き起り、それが月に向かって上がっていったことなど知りはしません。彼女の心にあるのは、「一刻も早く娘のところに帰らないといけない」という気持ちだけです。下り斜面を勢いよく走りすぎて崖から落下しそうになったり大岩に激しく体をぶつけたりしながらも、彼女はできる限りの速さで山を下りていきました。
 陽が落ちて辺りがすっかり暗くなってしまった後でも、母親が足を止めることはありませんでした。月や星の明かりを頼りに、更にはそれらが雲に隠れてしまった後には手探りで、一歩でも前へ進もうとするのでした。
 再び羽磋と王柔は、彼女がゴビの荒れ地を旅する日々を追体験することになりました。薬草を探すために村を出て祁連山脈を目指した時とは逆に、今度は祁連山脈から村へ戻る旅でした。
 村を飛び出した当初は、長老から聞いた昔話以上の情報が無く、たとえそれが母親の信じるように現実のものであったとしても、どのような場所に生えているのかすらもわからない状態でしたから、彼女は様々な場所で薬草に関する手掛かりを探しながら旅をしなければなりませんでした。そのため、祁連山脈に向かって真っすぐに進めたわけではありませんでした。交易隊が通りかかるのを待ったりその地に伝わる伝承を調べたりするために一か所に留まったことも何度もありましたから、それはそれは大変な時間が掛かっていました。
 今回の旅は村に帰ることが目的で、途中で何かを探したりすることはありませんから、まっすぐに村へ向かうことができます。
 彼女が暮らしていた村は、いまのヤルダンの近くにありました。祁連山脈は、その名の通り山々が長く連なったものですから、正確には彼女が薬草を見つけた山が山脈のどこに位置しているかによって変わるのですが、祁連山脈近くを通る交易路から彼女の村の近くの交易路までで考えると、その間は交易隊がおおよそ二十日以上かけて移動するほどの距離がありました。
 ただ、旅にかかる日数は単純に目的地までの距離だけでは測れません。非常に乾燥した荒地であるゴビを旅するにはたくさんの水や食料が必要になるので、自分自身でそれを積んだ駱駝や馬を引き連れるか、交易隊のような旅を目的とした一団に加えてもらわねばなりません。母親が村から祁連山脈を目指した旅でも、薬草についての情報取集もかねて、いくつもの交易隊に加えてもらっていました。
 でも、彼女の村の方向へ向かう交易隊が、都合よく交易路を通りかかることなどないのです。母親は山を下りるとすぐに交易路の中継地の一つとなっている村へ駆け込んだのですが、やはり自分の村の方へと進む交易隊が到着するのを、長い間一日千秋の想いで待たなければなりませんでした。ようやく彼女が望む交易隊がそこを訪れた際には、母親はどうしても同行させてほしい一心で交易隊の隊長の足元に伏し、「何でもしますから、隊の一員として村まで同行させてください」と頼み込みました。次の交易隊がいつ現れるかわかりませんから、彼女が隊長に同行を願う熱量は、大変なものでした。その母親の気持ちに感じるものがあったのか、交易隊の隊長は通常は許さない他者の同行を、彼女に限っては認めてくれるのでした。
 母親は自分の村へ帰る手段を見つけるまでにその村で長い時間を過ごさなければなりませんでしたが、それでも彼女はまだ幸運であったと言えるでしょう。
 月の民は交易路を保護し、それを利用して東の秦や西のパルティアやローマなどと交易を行っていましたが、荒れたゴビを通り遠くまで旅することはとても困難で危険を伴うことでした。そのため、小規模な交易隊を幾つも仕立てて旅をするのでは糧食や護衛人の効率が悪いので、ある程度の時間をかけて多くの荷を集めた後で大規模な交易隊を編成するのが常でした。また、交易路を通って運ばれる荷を狙う盗賊もいますから、交易路を保護する国の力が弱くなって盗賊が跋扈するような時は、長距離を移動しての交易はほとんど行われなくなってしまうのでした。
 このように、運が悪ければ母親はこの村で何年何十年と自分の村の方へ行く交易隊を待ち続けなければならないところだったのです。でも、彼女は季節が変わるほど長い間交易隊を待つことはありませんでした。それに、村にやってきた交易隊の隊長に受け入れられて、同行を許されることになったのですから、運が良かったと考えられるのです。
 結果として、母親が自分の暮らしていた村へ帰るまでに費やした時間は、薬草を探すために費やした時間と比べればとても短いものでした。
 でも、娘のことを心配する母親にとっては、それがほんの数時間であっても長い時間に感じられるものです。そのため、西国へ陶磁器などを運ぶ交易隊に同行させてもらっていた母親は、その進む速度が交易隊としては普通のものであることを知りつつも、全身の肌に粟がたつほどじれったく感じられて仕方ありませんでした。彼女は交易隊に交じって歩を進めながらも、度々自分の村の方角をじっと眺めて、「今日はどれだけ近づいたか」と考えずにはいられませんでした。
 短い歩幅ではあっても、それを確実に重ねて行けば長い距離を移動することができます。ついに、彼女の旅にも終わりがやってきました。とうとう、自分の暮らしていた村が近くなってくると、母親は多くの荷物を運ぶ交易隊の進む早さに合わせて歩くのが、我慢できなくなってしまいました。母親は、交易隊がその村に到着するのを待たずに、交易路の上で隊長に深々と一礼をして心の底からの感謝を述べるやいなや隊を離れ、村に向かって一直線に走って行くのでした。






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