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月の砂漠のかぐや姫 第91話

「あ、ああ、王花さん、ああ、ああっ!」
「大丈夫、大丈夫だよ、王碧。傷はふさがっているし、ここはアタシたちの酒場だ。安心していいんだよ」
「ああ・・・・・・、は、はい。そうだ、そうだよ。俺たちは、帰ってきたんだ。あいつらから逃げられたんだ・・・・・・」

 王碧と呼ばれた男は、意識がぼんやりとしている間は恐怖が表に出ていましたが、王花の言葉でようやく落ち着きを取り戻せたようでした。

「そう、そうだ。アンタはアイツらから無事に逃げられたんだよ・・・・・・。それで、王碧、アイツらってなんだい?」

 まずは相手を安心させようと、話を合わせた王花でした。ですが、もともと、気が長い性格ではありませんし、突然のことで自分自身の心も乱れています。それで、相手がだいぶん落ち着きを取り戻してきたことを確かめるやいなや、王花は両の掌で王碧のほほを挟み、自分の方にしっかりと顔を向けさせると、一番大事なところに踏み込んだのでした。
 アタシの大切な家族をこんな目に合わせたのはいったい誰だい、と。
 それを問われた王碧の青い目に、さっと黒い影が落ちました。それは、単純に身体的な危険に襲われただけではなくて、何者かによって、彼の心にも黒々とした刻印が押されたことの証でした。その刻印の名は「恐怖」、あるいは、「畏怖」でした。
 でも、彼の瞳には、今は王花の顔が映っています。やがて、その黒い影は王花の顔に打ち消されるようにして、彼の瞳から消えていきました。王壁は乾ききった唇を舌で濡らしてから、王花の反応を探るように、少しずつ話し始めました。

「・・・・・・王花さん、とても信じられない話かもしれないけど・・・・・・、ヤルダンの奇岩が動いたんだ。いや、本当なんだ・・・・・・、そいつらが夜の闇の中で、俺たちを襲ってきたんだよ。それに、見たこともない魔物の形をした岩もたくさんいた。そう、砂漠オオカミナなんかじゃない。生きた獣なんかじゃないんだ。砂岩でできた魔物たちなんだよ、俺たちを襲ったのは・・・・・・」
「まさか、あのヤルダンの奇岩がかい・・・・・・」
「そうなんだ、王花さんの信じられない気持ちもよくわかる。だけど、これは本当なんだ」
「ヤルダンの、奇岩が動いた・・・・・・」

 いつしか、王碧の頬に触れていた王花の手から、力が抜けていました。どこかの盗賊団が待ち伏せでもして襲ってきたのかと考えていた王花にとって、それはまったく考えてもみなかった話でした。
 自分の頭の中で、ヤルダンの奇岩が動くところを想像する王花。一時的に彼女の意識は自分の想像の世界にすべて向けられてしまいました。そのためなのです、王花の手が離れてだらんと横を向いた王碧の唇からこぼれ落ちた言葉に、彼女が気が付かなかったのは。

「だけど、本当に恐ろしいのは、奇岩なんかじゃなかったんだ・・・・・・」

 王碧の言葉はそれ以上続きませんでした。なぜなら、それこそが、彼の心に焼き印を押し付けた恐ろしいものであり、語るどころか、思いだすことすら、したくはなかったからでした。


 月の民に連なる者ならば、ヤルダンはこの広いゴビの中でももっとも奇妙な地形の一つであることを、誰もが知っていました。そこには「何か不思議なことが、それも恐ろしいことが起きるのではないか」と、通り抜けようとする者に感じさせる「何か」が満ちていました。それ故に、ヤルダンは「ヤルダン魔鬼城」とも呼ばれ、皆から恐れられているのでした。
 王花の盗賊団の者は、案内人としてヤルダンを通り抜けようとする交易隊の先頭に立ちます。その際には、交易隊みんなで月の民に古くから伝わる旅の唄を歌いながら進み、みんなの不安を少しでも和らげようとしたこともありました。始めは案内人と一緒に唄を歌いながら進む隊員たちでしたが、大地の隙間から漏れてくる魔物たちの嘲笑を聞き、自分たちの姿をじっと眺めているような奇妙な砂岩の横を通り過ぎるにつれて、案内人の後ろから聞こえてくる声は、旅の唄の歌い声から魔よけのまじないを唱える声に変わってくるのでした・・・・・。
 しかし、それほど精霊の世界に近いヤルダンではありましたが、これまで、奇岩が動き、ましてや、人を襲ったということなどは、聞いたこともありませんでした。
 阿部の下で働き、月の巫女の不思議や精霊の力に関しての知識は、普通の人よりも豊かに持っている王花でした。小野と共に、月の巫女の祭器を探してもいます。それらの祭器とは、秦の国にあると言われる、燃えることがなく、火によって汚れが消えてさらに美しくなると言われる「火ねずみの皮」、蓬莱山に生えている、根は銀、幹や枝は黄金、実は真珠といわれる「蓬莱の玉の枝」、さらには、月の光を糸として巻き取り、その糸で編んだ羽衣を纏えば空を自由に飛ぶことが出来るという「月光の糸車」などで、精霊の住む世界から人々が暮らす世界にこぼれ落ちたものとしか思えない不思議なものでした。
 そのような王花でも、ヤルダンの奇岩が動き盗賊団の仲間を襲ったなどとは、俄かには信じられませんでした。でも・・・・・・。



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