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月の砂漠のかぐや姫 第290話

 「母を待つ少女」の母親の手を離れた巨大竜巻は、地面から赤茶色をした砂を激しく巻き上げながら、轟音と共に前へ進みました。 
 これまでとは桁違いに多い砂が空中に舞い上げられたため、巨大竜巻が通った道筋には赤茶色の雲が形作られて、外から中の様子をうかがい知ることはできなくなってしまいました。巨大竜巻を先頭とする雲は、まず羽磋と理亜を、そして、次に王柔を飲み込みと、さらにその先へと進みました。巨大竜巻が生じる音があまりにも大きかったからでしょうか、羽磋たちが竜巻にその身を砕かれたときに上げたであろう叫び声が、雲の外に漏れ出ることはありませんでした。
 半ば地面から浮き上がり発達しながら進んでいくその様子から、終いには空にでも登っていくのかと思われた巨大竜巻は、王柔がしゃがみ込んでいたところを通りすぎた後で、見えない壁にでもぶつかったかのように急にその身体を揺らしながら止まりました。いま羽磋たちがいるゴビの世界は現実の世界ではなくて、濃青色の球体の中の世界だったのですが、巨大竜巻はその外殻に触れてしまったのでした。
 ドドドンッ、グラアアッと、この世界全体が大きく揺れたかと思うと、「ウアアアッ」と言う悲鳴がこの世界全体の空気を一息に震わせました。
 その悲鳴は羽磋たちがあげたもので、雲の中から飛び出してきたのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。それは、急にこの世界全体が激しく揺れたのと同時に、世界それ自身が叫び出したようなものでありました。
 突然、このゴビの世界は終わりを迎えました。ブツンと綱が切れるように明確に、乾燥した赤土が広がるゴビの大地も、そこを走る交易路も、少し離れたところに見える「母を待つ少女」の母親の故郷の村も、そこへ向かう小道も、そして、村を背にして立つ母親の大きな姿も、さらには、巨大竜巻が巻き起こし、その中に羽磋たちを飲み込んでしまった赤茶色の雲も、全てが消えてしまいました。

「ン・・・・・・」
 羽磋は、ゆっくりと目を開けました。どうやら、彼は幾ばくかの間意識を失っていたようでした。
 まず、青黒い色をした地面が視界を垂直に区切っているのが、彼の目に入りました。いいえ、地面が縦になっているのではありません。彼が冷たい砂岩の地面の上に横倒しになっているのです。
 自分が一体何を見ているのか、そもそも、自分に何があったのか、意識を取り戻したばかりの羽磋にはわかりません。戸惑いがあまりにも大きくて、彼は再び目を閉じました。
 そのとたん、彼の脳裏に狂ったように渦を巻く巨大な風の塊が、強烈な存在感を持って現れました。
「アアアッ!」
 今度は大きな声を上げながら、羽磋は飛び起きました。竜巻の恐ろしい記憶が、彼の身体を叩き起こしたのです。
「そうだ、そうだ、そうだっ。自分は突然前に入って来た理亜にぶつかって、地面に倒れ込んでしまったんだ。そこに、母親がとてつもなく大きな竜巻を放ってきて・・・・・・」
 自分の視界があっという間に轟々と猛り狂う風で覆われて真っ黒になったその時のことを思い出すと、たちまち羽磋の喉の奥はキュッと詰まり、その肌は粟立ちました。あの時に羽磋に投げつけられたものは、巨大竜巻と言う形を取ってはいましたが、その実は黒々とした「死」でした。そうだ、自分はそれが投げつけられる前に何とかしようと、小刀を構えて・・・・・・。
「ああっ、そうだ、小刀はどこだっ」
 ようやく頭が働き始めた羽磋は、バッと地面に両手をつくと、大事な小刀がどこかに転がっていないか探し始めました。理亜にぶつかった時にそれが手から離れたことを、思い出したのです。あの小刀は父である大伴から渡された大切なものですし、「母を待つ少女」の母親を止めるために必要なものです。いや、止めるって? 羽磋が止めようとしていた巨大竜巻は、たしか自分たちに向けて放たれたような・・・・・・。
 またもや、頭に靄がかかり始めたのを羽磋は意識しましたが、小刀が大事なものであることには、何の疑いも覚えません。羽磋は右へ左へサッサッと顔を振り、それを探すのでした。
 羽磋の必死さが精霊に通じたのか、小刀はすぐに見つかりました。彼が倒れていたところから数歩離れたところに、転がっていたのです。羽磋は自分の他にそれを狙っている者がいるかのように、慌てて小刀に飛びついてそれを拾い上げると、「ほうっ」と一つ息を吐きながら胸に押し当てました。彼にとって、それは単に武器を取り戻したというだけではありませんでした。羽磋は、自分がいままでの旅の中で積み重ねてきた経験そのものを、もう一度取り戻したように思えてなりませんでした。
 小刀を見つけることができて少し心に余裕が生じたのでしょうか、羽磋は自分の身体に不具合が生じていないかを確かめるように、少しずつ手足に力を加えてみました。どこにも怪我がないことを確認すると、羽磋は慎重な様子でゆっくりと立ち上がり、辺りを見回しました。先ほどまで彼の目に入って来ていた、ゴビの大地に降り注ぐ太陽の強い光は消えていました。いま彼の目に入って来ている光は青い光でした。それは、天から降り注ぐ光ではありません。地下世界の底面を流れる青い水が発している光でした。
 羽磋の足元では理亜が、そして、少し離れた場所には、王柔が倒れていました。羽磋は顔を下に向けて、自分が冷たく硬い砂岩の上に立っていることを確認しました。今度は上を見てみました。彼の頭上には空はありませんでした。彼の立っているところからずいぶん上のところにまで空間が広がっていましたがそれは解放されておらず、見える範囲全てで青黒い砂岩が天井を構成していました。その天井にはところどころに裂け目があり、そこからは黄白色の光が帯のようになって差し込んでいました。その光景は、天井と地上との間で、明るく輝く細長い布が何枚も何枚も張り渡されているかのようでした。
 もう間違いようがありません。羽磋たちは、ヤルダンの地下に広がる大空間の中にいるのです。彼らは、濃青色の球体に飲み込まれる前に立っていた場所、つまり、地下世界の底面の砂岩が盛り上がって丘のようになっているところに戻ってきているのでした。








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