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月の砂漠のかぐや姫 第59話

「どうぞお座りください、羽磋殿」

 遊牧隊だと家族で使用するような大きな天幕に入ると、小野は羽磋に座るように促しました。どうやら、この天幕は、小野が一人で使用しているようでした。
 天幕の中には、様々な箱や包みが所狭しと置かれています。大きな天幕とは言え、座ることが出来る場所は中央の一部しかありません。羽磋は、包みや巻物をつぶさないように注意しながら、小野の向かい側に腰を下ろしました。

「お父上からお聞きかもしれませんが、私はこの交易隊の指揮を阿部殿から任されている小野と申します。交易隊の仕事で常に外に出ているものですから、野と呼ばれておりましたところ、阿部殿が「交易に従事する者は、自分を小さくして相手を敬う気持ちを持ち続けることが大切だ」という意味を込めて、小野という名を贈ってくれたのです」

 年齢は三十台の前半に見える小野からすれば、羽磋は随分と年下になりますが、その口調はとても丁寧で、名前に込められた意味の通り、とてもへりくだったものでした。
 羽磋とあまり変わらない小柄な体つきをしていて、月の民の慣習の通り頭に白い布を巻き付けていました。ただ、その布の下から前髪はのぞいておらず、広い額が目につきました。

「もう太陽がずいぶんと落ちてきました。暗くなる前に合流できて、本当に良かったです。今、外で火を焚いておりますので、交易に従ずる隊商ですから何のおもてなしもできずに恐縮ですが、夕食をご一緒にどうぞ」
「小野殿、こちらに留学の証がありますので、確かめていただきたいのですが」
「ああ、良いのですよ。羽磋殿。この交易隊が讃岐村で補給をお願いした時に、ちょうど村にいらっしゃった大伴殿から、お話を伺っておりますので。先ほどは失礼いたしました。護衛隊の頭目にも、羽磋殿が来られることは周知していたのですが、何分、気分屋な男でして。ふざけて、羽磋殿に肩ひじばった対応をしてみたのでしょう」
「ふざけて、ですか‥‥‥」

 羽磋は、先程の片目をつぶった冒頓の表情を思い返しました。
 確かに、面白半分だったのかもしれません。ただ、それでさえ、あのような恐ろしい圧力を感じたのだとしたら・・・・・・。
 思わず、羽磋は、ぶるぶるっと身を震わせました。

「あの護衛の方たちは、頭布をつけていなかったのですが、肸頓(キドン)族ではそのような方もいらっしゃるのですか」
「ああ、違うのです、羽磋殿。話せば長いことになりますが、彼らは肸頓族の男ではありません。彼らは、匈奴(キョウド)です。羽磋殿は、烏達渓谷の戦いをご存知ですか。あの戦いの後、匈奴から停戦のための人質として、月の民に送られてきた匈奴の単于の息子とその従者、それが彼らです」
「匈奴なのですか! それが、失礼ながら、交易隊の護衛になっているなんて」

 羽磋が驚くのも無理はありませんでした。ゴビ北部の新興騎馬民族である匈奴は、祁連山脈北部から天山山脈周辺に広がるゴビで生活する月の民と激しくぶつかり合い、大きな戦いを何度も繰り広げてきました。
 その最後の大きな戦いが「烏達渓谷の戦い」で、この戦いで御門が「月の巫女」弱竹姫の力を利用して匈奴を打ち破ったことから、月の民の覇権がゴビ全体に確立していたのでした。
 冒頓たちが、人質として月の民に出されている者たちなのであれば、逃げ出さないようにどこかに閉じ込めておくなどしなくても、いいものなのでしょうか。そうでなくても、各地へ旅に出る交易隊に所属させる必要など、全く無いように思えます。

「ああ、まぁ、色々あるのですよ。ハハハッ」

 小野は、羽磋の驚きを軟らかく受け止めました。
 その時、天幕の外から、食事の用意ができたと告げる声が届きました。
 日の光も相当に弱くなってきて、天幕の中もかなり薄暗くなって来ていました。

「さ、羽磋殿。陽が落ちる前に、食事を済ませましょう」

 小野は、羽磋に外に出るように促しました。
 羽磋としては、まだまだ小野と話したいことがたくさんあったのです。
 大伴は言いました。「小野とは、月の巫女の秘密を共有している」と。ひょっとしたら、輝夜姫の消滅を防ぎ月に還すための手段について、何か知っているのかもしれません。また、阿部と近しい関係にあるのであれば、阿部についての話も聞いてみたいのです。
 しかし、さすがに初対面でそこまで踏み込んだ話をするのにはためらいがありますし、まもなく陽が落ちて暗くなってしまうこの時間帯に、落ち着いて話などとてもできません。
 羽磋は、月の巫女の話をしたいと焦る気持ちをぐっとこらえて、小野の天幕から出ることにしました。
 交易隊の野営時の準備は、すっかりと整っているようでした。中央では大きな火が焚かれ、その周囲には男たちが乳酒の入った器と干し肉を手にしながら、思い思いの場所に腰を下ろしていました。
 男達のほとんどは、小野や羽磋と同じように頭布を巻いた月の民の男でしたが、その中に頭布を巻いていない、おそらく匈奴の男と思われるものも、数人含まれていました。盗賊や獣の襲撃から交易隊を守るために夜間も警戒が必要なので、護衛隊の彼らは、交代で食事をとっているのでした。

「みなさん、聞いてください。こちらは、貴霜(クシャン)族から我らが肸頓族へ留学することになった羽磋殿です。阿部殿へご紹介するために、吐露(トロ)村までご一緒願うことになります」
「羽磋と申します。よろしくお願いします」
「おおぅ!」

 天幕の外で羽磋の肩に手を置きながら、小野は大きな声で、交易隊の者たちに対して羽磋の紹介をしました。それに対して、やはり大きな声で、乳酒の器を掲げながら男達が答えました。その焚火の炎に照らし出される顔の中には、先程の護衛隊の頭目の顔もあったのでした。



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