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月の砂漠のかぐや姫 第280話

 その理亜が目にしたのは、自分の方に半ば身体を向けながら首を捻って後ろを振り向いているひょろりと背の高い男が、横から急に吹きこんできた激風によって、まるで全速力で走る馬にでもぶつかったかのように大きく弾き飛ばされるところでした。
 もちろん、その弾き飛ばされた男とは、王柔でした。背中の方から自分を追いかけて来た羽磋の悲鳴に似た声に思わず振り向いたところに、全く意識していなかった方向から突風を受けたのですからたまりません。突風に対して姿勢を低くして身構えることも、足を踏ん張ることもできませんでした。彼は「オワッ」と言う短い叫び声を残すと、風に攫われて身体ごと宙に浮き、次の瞬間には、理亜たちから少し離れた地面に叩きつけられていました。
「王柔殿!」
 母親と対峙している理亜のことも気になりますが、やはり、地面に激突した王柔が無事であるかが心配です。羽磋は、直ぐに彼の元へと走りました。母親が放った暴風は恐ろしいほどの力を持っていて、それに弾き飛ばされた王柔が倒れているところに着くまで、敏捷な羽磋でも幾らか走らなければなりませんでした。羽磋が走り寄る間、ヤルダンの案内人であることを示す赤い頭布を巻いた王柔の頭は、地面に付いたまま少しも動きませんでした。
 羽磋が直ぐに動くことができたのは、一連の出来事が自分の把握している中で起きたことだったからでした。
 でも、理亜にとっては、それは前触れもなく、しかも、ほんのわずかな間に起きた出来事でした。それに、いまのいままで、彼女は母を待つ少女の母親に対して、自分は母親の娘だと必死になって訴えていたところでした。彼女がそれをどのような気持ちで行っていたのかはわかりませんが、彼女は母親に対して「わたしだよ、由だよ」と名乗り、母親の顔を一心に見つめていました。そして、まるでそれは自分の名前ではないとでも言うかのように、王柔の「理亜」という呼び掛けには、全く関心を見せていませんでした。
 そのため、目の前で何が起こったのかを、理亜が羽磋のように直ぐに理解することはできませんでした。
「え、な・・・・・・に? 何があったノ? アレ、え、アレは、オージュ? オージュ!」
 それでも、だんだんと状況がわかってきたのでしょう。理亜の表情が、母親に対して訴えかける必死のものから、他人を心配するものへと、サアッと変わっていきました。もちろん、それは理亜の顔であることに変わりはないのですが、そこに現われた表情の変化は非常に明確で、まるで身体の中身が全く別の人に入れ替わったかのようでした。
 これまで、母親の発する怒りの圧力に押されて膝をつきながらも、力と気力を振り絞って一度も母親の顔から視線を逸らずにいた理亜。その場から少しでも動いたら負けだとでも言うかのように、じっと耐え続けていたのですが、王柔が暴風に吹き飛ばされてしまったことをようやく理解すると、まるでそのような事など全くなかったかのようにパッと立ち上がり、彼が消えた方へ向きました。そして、今度は母親の方には少しも注意を払わずに、走り出しました。

「王柔殿、王柔殿! しっかりとしてください!」
 王柔の元へ辿り着くやいなや、羽磋は彼の上半身を抱き起してその頬を叩きました。突風に弾き飛ばされて地面に転がされた王柔が、そのまま全く身動きを見せなかったので、もしや万が一の事でもあったのではと、羽磋は気が気でなかったのでした。
「・・・・・・う、うう。・・・・・・あ、羽磋、殿?」
 幸いにも、羽磋のその心配は当たってはいませんでした。
 いきなり予想もしないところからぶつかってきた突風に吹き飛ばされ、反射的に身体を守る動きを取ることすらできないままで地面に叩きつけられたために、王柔は一時的に気を失っていました。でも、羽磋が彼を呼ぶ声と頬へ加えられた刺激によって、王柔は直ぐに意識を取り戻すことができたのでした。
「よ、良かった。目を覚ましてくださって、良かったです、本当に。でも、お身体は大丈夫ですか?」
「痛てて・・・・・・。いや、全身が痛いですけど・・・・・・、何とか動かせます。大きな怪我はしていないみたいです。ですけど、いったい何があったんですか、羽磋殿」
 王柔はまったく状況がわかっておりません。羽磋に問われて手足を軽く動かすと、背中や腰などに酷い痛みが走りますが、どうしてこのような痛みがあるのか、そもそも、自分はどうして倒れているのかすら不思議でなりません。痛みに顔をしかめながらも、王柔は羽磋にそのことを尋ねずにはいられないのでした。
 羽磋は何が起こったかを手短に王柔に伝えました。それを聞いた王柔は、全身に再び痛みが走るのにも構わず身体を起こしました。気を失ってしまったせいでひどく混乱をしていた彼の意識が、羽磋の説明を聞いて整理されて来ると、自分が何をしていたのかがすぐに思い出されました。それがバンッと心の中で大きく膨らんで、彼に訴えてきたのでした。「理亜を助けるんだ。理亜のところに行くんだ」と。
「そうだ、理亜っ。理亜は大丈夫ですか? 羽磋殿」
「そうですね。早く理亜を助けないと」
 理亜のことを心配して立ちあがろうとする王柔ですが、彼の身体はガクガクと大きく震えていて、一人では走ることはおろか歩くことも難しそうです。羽磋は王柔の身体が倒れそうになるのをサッと脇に手を回して支えると、先ほどまで注視していた理亜と母親が向かい合っている場所へと顔を向けました。






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