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「月の砂漠のかぐや姫」これまでのあらすじ⑮(第75話から第77話)


「お前は逃げないのか、案内人」
「僕はこの通り、子供の頃に経験しているので大丈夫です。それより、理亜、いえ、彼女は、本当に風粟の病に罹っているのですか」
「わからぬか。奴隷の顔に、ほら」
 寒山の問いに、王柔は自分の頭布をめくって痘痕を示しました。痘痕があるということは、風粟の病に罹ったことがあるということだからです。
 どうしても少女が風粟の病に罹ったと信じたくない王柔でしたが、寒山に言われるがままに、短剣で指し示された彼女の喉元を確認すると・・・・・・。そこには、風粟の病の特徴である赤い発疹があったのでした。
「ああ、そんな、気が付かなかった・・・・・・」
 下を向いて荒い息を吐いている少女の横で、王柔の口から絶望が言葉となって零れ落ちました。
「理亜、大丈夫かっ。しっかりしろっ。死ぬんじゃないぞ!」
 王柔は寒山の前であることも忘れて奴隷の少女の肩を抱き、混濁している彼女の意識に届くようにと、その名を叫びました。
 でも、高熱のためか、理亜と呼ばれた奴隷の少女は、王柔に対して弱々しく頷くだけで、何も答えることができませんでした。
 二人の様子を馬上から見下ろしていた寒山でしたが、この奴隷の少女に対する処置について、彼の中では結論が出ていました。
「案内人、その奴隷はこの場に置いていく。荷として預かった以上、目的地まで届けるのが私の責任だが致し方ない。これ以上、共に連れ歩いては、病を他の者にうつされる恐れがあるからな」
 それは、王柔に何の反論も許さない、冷たい声で告げられました。
「お主の考えは良くわかっている。だが、お前の話を聞く余地はないぞ。この娘を切り捨てて行っても良いのだ」
 王柔は、願い事を言おうとしていた口を、ただ開けたり閉じたりすることしかできませんでした。少しでも言葉を発してしまえば寒山が理亜を殺してしまうと、彼には思えたからでした。
 もし、王柔がもっと経験を積んだ男であったならば、自分の「案内人」であり「生きた通行手形」である立場を生かして、もっと寒山に食い下がることができたかもしれません。でも、彼はつい最近成人したばかりの、年若く気の弱い若者なのでした。
 一方の寒山は、風粟の病の者を切り捨てたりすれば、その傷口から病の霊が染み出して周りの者に病気が広がってしまうと知っていましたから、始めから彼女を傷つけるつもりなどはありませんでした。でも、あえてそのように口にしたのは、王柔の気持ちを上手く操作するためだったのでした。
 王柔が生まれる前から、多くの人間を率いてゴビの砂漠を旅してきた寒山にとっては、このような駆け引きなどは、いとも容易いものなのでした。
「・・・・・・わかりました。彼女を傷つけることだけはやめてください。あと・・・・・・、せめてこれだけは、許してください」
 王柔にとっては永遠とも感じられた数秒の沈黙の後で、そんな言葉が彼の口から絞り出されました。
 もはや話は終わったと理亜の下を離れる寒山に断ると、王柔は自分の腰から下げていた皮袋を理亜の手に握らせました。それは、ゴビの砂漠で命を繋ぐためには絶対に必要である、水が入った皮袋でした。
「いいか、理亜。頑張るんだ。少し休んで楽になったら、なんとか、土光村まで来るんだ。そこには、王花(オウカ)さんがいる。僕たちのお母さんみたいな人だ」
「土・・・・・・光・・・・・・村。王花・・・・・・さん。おかあ・・・・・・さん?」
「そうだ、そうだよ。理亜。ごめんよ、僕は、行かなければいけない。本当にごめん・・・・・・」
 王柔は理亜の手を取って、理亜を残してこの場を離れないといけないことを、繰り返し謝るのでした。
「くどい、くどいぞ、案内人!」
 隊に戻った寒山の声が、彼の背中を強く叩きました。
 激しく体を震わせた王柔は、最後に強く理亜の手を握ると・・・・・・、その手を放しました。
「オージュ・・・・・・?」
「ごめん!」
 彼は大きく一声上げると、ぱっと振り返って走り出し、隊の中へ消えていきました。これ以上、理亜のまっすぐな視線を受け続けることには、耐えられなかったからでした。
 王柔にだってわかっていたのでした。ここはまだヤルダンの中です。自分が渡した水袋一つを頼りにして、あのように弱り切った身体で土光村まで辿り着くなんて、とても無理なのです。でも、彼にはそれだけのことしかできなかったのでした。ああでもしなければ、寒山は今すぐにでも彼女を切り伏せて、隊の進行を再開させてしまうでしょう。でも、ああ、それでも。
「それしかなかった? 本当に、それしかなかったのか・・・・・・」
 心の中で大きくなる自分を責める声を、王柔は止めることができませんでした。
「遅れた分を取り戻すぞ! さぁ、歩け!」
 王柔が隊の先頭に戻るやいなや、寒山の怒声が隊全体に響き渡りました。それは、冬空に響く雷鳴のように、一度緩んだ隊員の気持ちを、強く叩くのでした。




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