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月の砂漠のかぐや姫 第272話

 胸の中の空気の全てを叫び声に変えて出し尽くすと、母親はゼエゼエと荒い呼吸を繰り返しながら砂岩の前に戻りました。今度は先ほどのように立ったままで覗き込むのではなく、砂岩の前にストンと力なく跪くと、震える両腕を前に伸ばしました。そして、母親は両腕を砂岩の後ろにまで回して、自分の身体をしっかりとそれにくっつけました。母親の顔は砂岩の先端部分にほおずりするかのように寄せられました。
 母親の背中は何度も上下に動いていました。大きな叫び声を上げたせいで、まだ呼吸が整わないのでしょうか。いいえ、そうではありませんでした。彼女の背中が大きく動いていたのは、彼女が冷たい砂岩の塊に頬を寄せながら、嗚咽を漏らしていたからでした。
「ごめんね、ごめんね、ごめんねぇ・・・・・・。あああ・・・・・・」
 母親は何度も許しを請う言葉を口にし、涙を流しながら、砂岩の塊を撫でました。最後には、砂岩の塊の前に突っ伏して、両手で地面を叩きながら、小さな子供のように大きな泣き声を上げ始めました。
「ウウ、ウウウッ。お母さんが、お母さんが遅かったからっ。それでも、待っててくれって願ったからっ。アア、ごめんね、ごめんね、ごめんねぇっ・・・・・・。ウアアア・・・・・・」
 地面に顔を押し付けて慟哭する母親は、さらに何度も何度も砂岩に謝り続けました。そして、自分の前に立つ物言わぬ砂岩の塊を、娘の名前で呼び続けるのでした。
 村へと続く道の脇にポツンと立っていた砂岩の塊。
 赤茶けたゴビの大地に転がっているのではなく、木が大地から生えるようにそこに立っていた、小柄な人の背丈ほどの細長い砂岩の塊。
 足元で地面に額をつけて涙を流している母親の背中越しに、彼方へ向かってその一部を突き出している砂岩の塊。
 母親が自分の娘の名前で呼び、何度も心からの謝罪をしている砂岩の塊。
 その上部をよく見ると、そこには尖った箇所は無く、全体が穏やかな丸みを帯びた形状をしています。そこから少し下がったところがくびれていることからも、上部はまるで人の頭のように見えます。
 くびれのすぐ下の部分は先端部分よりも広くなっており、人間の肩のようにも見えます。そのように考えると、砂岩の中頃から突き出されている部分は、まるで人間が遠くにいる誰かに呼び掛けるために、腕を前に伸ばしているかのように見えてきます。
 夢を見るかのようにこの場面を体験し、あるいは、俯瞰して見ている王柔と羽磋の目にも、もうこの砂岩の塊が単なる自然物には見えなくなってきていました。いまでは母親と同じように彼らの目にも、それが少女の姿を模した、いや、少女そのものが砂岩の塊となったものとして映っていました。
 結局、間に合わなかったのです。
 母親は娘の病を治すためにゴビの大地を駆け巡り、古くからの言い伝えを知る人を探し回り、そして、霊峰祁連山脈の奥深く迄分け入って、この上もない苦労の末に昔話で語られている薬草を手に入れました。ただ、どうしてもそれには長い時間が必要とされました。
 村に残してきた娘の体調や否応もなく過ぎていく時間のことを考えると、気も狂わんばかりに心配が膨らんでしまうことから、母親は無意識の内にそれを考えの外に押し出して旅を続けていました。でも、やはり現実はそういうわけにいきません。時間の経過と共に病が娘の身体を犯し、とうとうその命を奪ってしまったのでしょう。
「ア・・・・・・、ジアアアッッ! ど、どごし、てぇ・・・・・・。ウ、ブゥ、ウグガァァァァッ!」
 母親は地面に顔を強く押し付けたまま、何度も叫び声を上げました。何度も何度もです。あまりに大きな声を繰り返しに出すものですから、その声はしゃがれ、割れてしまいました。彼女の喉は裂け、叫び声と共に飛び出た赤黒い血が、ゴビの赤土をさらに赤く染めました。
 季節や時間によって吹き抜ける方向は変わりますが、ゴビには絶えず風が吹いています。しかし、母親の心の底からの悲嘆を表した叫び声やその鬼気迫る様子に風の精霊が驚いたのか、万が一にも自分にその恨みが向けられることがないようにと思ったのか、この時の彼女の周りでは、空気の流れは止まっていました。
 母親は右手で激しく地面を叩きました。ゴドブゥッ。その拳は鈍い嫌な音を立て、奇妙な形に曲がってしまいました。
 今度は、母親は左手で自分の首筋を掻きむしりました。その爪は自分の皮膚を深く傷つけ、何本もの赤い筋が首筋に浮かび上がり、傷口から滲み出た血が砂まみれになった服の中へと流れ込んでいきました。
 それでも、母親は痛みを感じた様子は見せません。限界を超えた母親の心は、壊れてしまっていました。





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