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月の砂漠のかぐや姫 第261話

「どう、どうすればいいんだ・・・・・・」
 もちろん、羽磋は将来を期待された勇気ある若者でしたから、ずっと恐怖心に捕らわれ続けていたわけではありません。初めて濃青色の球体を見た時の大きな衝撃が通り過ぎた後には、心の底から上がって来ようとする恐怖心を何とか押し戻すことができていて、この場面で自分がどうすれば良いのかを考えようとしていました。でも、そこで彼は止まってしまいました。わからないのです。どうすれば良いのかが、全くわからないのです。
 夜のバダインジャラン砂漠でハブブに襲われた時には、それから逃げるために反射的に反対側へと走り出しました。単純に恐ろしいものから逃げる、あの時はそれで良かったのです。でも、今回は状況が違うのです。彼らはこの洞窟から出るために、精霊の力の源を求めてここまでやってきていました。また、そもそもヤルダンに来た理由に立ち返れば、理亜の身体に起きている不思議を治すことが大きな理由の一つでしたが、それには精霊の力が関係していると思われていました。つまり、この精霊の力の源たる濃青色をした球体こそが彼らの目的のものなのですから、それから逃げても意味が無いのです。
 でも、何をすれば? では、どうすれば?
 地下世界の奥でとうとう目的のものを見つけはしましたが、その次に何をどうすればいいのでしょうか。いいえ、それ以前に、そもそも自分に何ができるのでしょうか。目的のものはあまりにも巨大で異質なものでありました。しかも、それが大きな怒りを持ちながら自分たちに近づいて来ているのです。
 恐怖に心を掴まれて身を固くしていた羽磋は、なんとかそれを心の底に押し戻した後も、動けないままでした。
 羽磋は右手が白くなるぐらいにギュッと力を込めて、小刀を握りしめていました。その小刀は、かつて父である大伴が青海に棲む竜を倒すときに用いたというもので、旅に出るときに彼に贈られたものでした。その小刀が球体の発する精霊の力に反応したのでしょうか、あるいは、身動きできなくなってしまった羽磋に活を与えるために自らそうしたのでしょうか、彼の右手の中でカッと熱くなりました。
「ワァッ! アチッアチィツ! なんだ!」
 それは羽磋が意図して行ったことではなかったので、彼は飛び上がらんばかりに驚きました。彼は右手で握っていた小刀を、持ち手の近くで火が燃える短い松明であるかのように、左手へ、右手へと、何度も持ち替えました。
 反射的に行ったその動作は、大きな効果をもたらしました。彼を縛っていた見えない綱が切れたのです。小刀が帯びた熱は長くは保たず、それは直ぐに冷たさを取り戻しましたが、その頃には羽磋もずいぶんと自分を取り戻していて、恐怖と迷いという自分の中の世界から外の世界へ視線を向けることができるようになっていました。
「あ、あれっ、王柔殿? あ、上かっ」
 その時になって、ようやく羽磋は王柔が横にいないことに気が付きました。慌てて彼は王柔の姿を探して周りを見て、丘の上に続く斜面を駆け上がっている彼の姿に気が付きました。
 王柔は自分の心の奥底にある「理亜を守る」という想いに素直に従えたのですが、羽磋の方には、精霊の力に関する知識やバダインジャラン砂漠でハブブに襲われた経験があった上に、いつのまにかここからどうやって出るかを考える役割まで回ってきていました。それらの経験から来る恐怖心やどうすれば良いかを考える意識が綱となって羽磋の身体を縛っていたので、王柔よりも羽磋の方が行動に移ることが遅れてしまったのでした。
「そうか、とにかく理亜のところに行かないとっ」
 羽磋は王柔に呼び掛けることはせず、すぐに斜面へ向けて駆け出しました。
 それは砂岩の隆起でできた丘の斜面でしたから、人が上るための足掛かりが用意されているわけではありません。それでも、こちらの斜面は比較的傾斜が穏やかなので、人が立ったままで駆けあがることはできそうです。羽磋は視線を上げて自分が進む先の斜面に目をやり、足場になりそうな箇所やその逆に足を掛けたら崩れてしまいそうな箇所を瞬時に判断しながら、王柔を追いかけるのでした。
 この大きな隆起がある場所では、それに合わせたかのように天井も高くなっていました。そのため、地下世界という限られた空間に生じた丘ではあるものの、下から上を見上げると首が痛くなるような高さがありました。身軽さが自慢の羽磋でも、しっかりとした足場をつたって斜面を蛇行しながら上がりその頂上にある平らな部分に到達した際には、呼吸がかなり乱れていました。
「はぁ、はあっ・・・・・・、王柔殿、理亜っ、どこですかっ」
 羽磋は斜面を登り切るとすぐに、荒い息を吐きながらも、丘の上にいるはずの理亜と王柔を探し出しました。その羽磋の目に飛び込んできたのは、理亜と王柔の姿ではなく濃青色の球体の姿でした。羽磋が理亜と王柔を見落としてしまったのでしょうか。いいえ、決して広くはない丘の上部のことですから、羽磋の視界の中に王柔が理亜を守るように抱きかかえている姿も入っていました。でも、いつの間にこんなに近くまで来ていたのかと思うぐらいに、空中を漂って近づいて来ていた濃い青色の球体の姿が大きくなっていて、それがいまにも膨張して地下世界の空間を埋め尽くしてしまうのではないかと錯覚しそうになるほどの強力な存在感を放っていたのです。そのため、まず羽磋の目を捉えたのはこの球体で、彼が王柔と理亜に気が付いた時には、二人がその球体に飲み込まれる寸前に思えました。





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