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月の砂漠のかぐや姫 第276話

 羽磋と王柔は「母を待つ少女」の昔話を知ってはいましたが、それは「少女」が砂像となってしまい、それを見た「母親」が大地の裂け目に飛び込んでしまう、というところで終わっていました。しかし、濃青色の球体の中で母親の過去を追体験した結果、二人はその話に続きがあったことを知りました。裂け目に飛び込んだ「母親」は死んでしまったのではなく、地下に広がっていた空間の中で濃青色の球体へと変化していたことを、いまでははっきりと認識できるようになっていました。
 その次の瞬間、彼ら二人の視界がパンッと明るい青色の光で満たされました。眩しさのあまり二人は目を閉じてしまいましたが、次にそろそろと目蓋を開けて辺りを見回した時には、過去の世界は消えていました。
 濃青色の球体に飲み込まれた直後と同じように、一面に灰色の雲が広がる空の下で、ゴウゴウと乱暴な音を立てながら渦巻いている風によって、彼らは空中を流されていました。稲妻の光でしょうか、分厚い雲の所々に刺すような黄色の閃光が浮かんでは消えています。羽磋たちが浮かび流されている大気自体が、怒りを我慢しているかのように常に細かく震えていて、いつ何時それ自体が爆発しても不思議ではないほどの緊迫感が肌に伝わってきます。
 初めの時は、「ここには恐ろしい怒りが満ちている」と言うことしか感じられなかった二人でしたが、いまではそれ以上のものが感じ取れるようになっていました。それは、暗い場所から明るい場所に出てきた人が、当初は眩しさばかりが感じられて何も見えなくても、やがて目がその光に慣れてくると周囲の様子を見て取る事ができるようになるのに似ていました。
 羽磋と王柔が飲み込まれた濃青色の球体は、一度は命が助かると思った娘を失ったことへの深い悲しみ、そして、自分と娘へ過酷な運命を与えた自分たち以外の誰かへの激しい怒りをきっかけとして、「母を待つ少女」の母親が転じたものでした。その内部で吹き荒れる強烈な暗い念の嵐に対して、二人は一方的に押し流されるだけでした。でも、母親の過去を追体験してその気持ちに共感できるようになった後では、球体内部で荒れ狂う嵐にも「母親のどこにもぶつけることのできない感情の現れ」と理解できるようになっていたのです。つまり、この世界を構築する大元の感情に触れることができた二人は、自分にぶつかって来る猛烈な風に目を閉じて身を固くするだけでなく、その向こう側にあるものを見て取ることができるようになったのでした。
 この球体内部の世界の中心にいたのは、一人の中年の女性でした。ボロボロにすり切れた衣服を身に纏い、酷く薄汚れた髪を元は白色でしたがいまでは赤土のせいで赤茶色に染まった頭布で覆ったその女性は、常人の数倍もの大きさがあるように見えました。羽磋たちにはすぐにわかりました。母親です。この女性こそ、この濃青色の球体そのものとなった母親の意識体でした。その巨大な母親は伸び上がり両手を大きく広げ、ギザギザと尖った叫び声を上げていました。もともとこの球体の内部は絶望と悲しみと怒りで満ちていましたが、いまの彼女が特定の何かに対して激しい憤りを覚え、それを攻撃しようとしていることが、羽磋たちには伝わってきました。
 その彼女の前には小さな少女がいました。まるで子羊に襲い掛かろうとするオオカミのような勢いで叫び声をあげる母親に対して、少女はひざまずいて両手を胸の前で合わせながら必死に何かを訴えていました。少女が身体を動かす度に、印象的な赤い髪が大きく揺れ動きました。この小さな少女こそは、羽磋と王柔が追いかけていた理亜でした。
 目に続き耳の方もこの世界に馴染んできたのか、羽磋と王柔の耳に、母親が激しく感情を昂らせながら理亜を責める怒声と、彼女に何かを必死に訴える理亜の涙声が伝わってきました。
「なんだ、なんなんだっ! お前は誰だあっ!」
「あたしダヨ! お母さん、あたしダヨ! 由(ユウ)ダヨ!」
「まだ、そんな大嘘を言うのかっ! 一時はそのような気も感じたが、やっぱりそれは間違いだった。お前が娘の由のはずはない。お前のその髪は何だ。この呪われたゴビの赤土のような赤い髪はっ。由は月より来たものを祖とする誇り高き月の民の娘。美しい黒髪を持っていたのだぞっ!」
 母親の声が、雷鳴のようにバリリッっと空気を震わしました。彼女が小さな理亜に向けて叩きつける怒気は、それ自体をはっきりと目で見ることができると思えるほど、荒々しいものでした。
 それは巨大な滝の下で落下してくる水を全身に浴びるかのような、とてつもない圧力でした。誰であろうともこのような恐ろしい相手に正面から責められれば、たとえ自分に覚えがないとしても、相手の言う通りに非を認め、泣いて許しを請わずにはいられないと思われました。
 でも、理亜は違っていました。
 母親の怒号と威圧に身を小さくしブルブルと震えながらも、顔をしっかりと上げて彼女の方を見ながら、訴えを続けているのでした。
  






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