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月の砂漠のかぐや姫 第70話

「あれは、先導役の王花の盗賊団の男だ。どうして、後ろに向かって走っていくのだろうか」

 王柔の姿は、山脈のように連なっている駱駝の背の影から見え隠れしながら、遠ざかっていきました。それを目で追いながら、寒山は、腹の中で不安という黒い塊が、ずしっと存在を主張し始めたのを感じました。

「何事もなければ良いが・・・・・・」

 自分を落ち着かせるためなのか、また無意識のうちに髭をなでながら、寒山はつぶやきました。
 交易隊の隊長はとても大変な仕事でした。長い期間、隊員を励ましながら、厳しいゴビの大地を、時には、歩くことさえ困難な砂漠を、進んでいかなければなりません。その間、精霊に加護を求める他は、誰の助けを受ける事も期待できません。天候の急変や盗賊に襲われる危険はもちろんのことですが、交易隊の団員による盗みや反逆に対してさえも備える必要があります。
 そのため、様々な個性を持つ隊長がいるものの、彼らは総じて人間的な魅力に富み、人を指導する力に優れているのでした。寒山は、その隊長たちの中でも、特に経験豊富な男でしたから、自らが持つ人を引き付ける力に加えて、様々な困難を乗り越えてきたという実績により、交易隊の各員からとても強い信頼を得ていたのでした。
 ただ、寒山は、どちらかというと「慎重な」考え方をする男でした。選択を迫られた際には、「全てを得る可能性もあるが全てを失う可能性もある選択肢」よりは、「多少損害が生じたとしても全体を失う恐れが少ない選択肢」を選ぶ男でした。もっとも、だからこそ、頭布の下の黒髪やその豊かな髭に、ぽつぽつと白いものが混じるこの年まで生き抜いてこれたのだ、と言うこともできるのかも知れませんが。
 その経験に裏打ちされた寒山の感覚は、ヤルダンに入った時から、なにやら言葉にできない刺激を彼に送り続けていました。そして、今、案内人が隊を逆走するという、通常あり得ない行いをしているところを目にしたのでした。
 心配するだけで済めば、何らかの笑い話で済むことであれば、それで良いのだが・・・・・・。寒山は、そのように思いながらも、不安が大きくなるのを留めることができないのでした。なぜなら、彼の経験はこう告げていたからでした。

「こういう時には、決まって何かが起きるのだ」


 経験というものは、最良の占い師なのかもしれません。
 やはり、寒山の恐れていたとおりになってしまいました。
 案内役の男が交易隊の後ろの方へ走っていってからしばらくして、そちらの方から大きな怒鳴り声が聞こえてきました。寒山が馬上から眺めたところでは、最後尾の連が交易隊の進行から大きく遅れていました。どうやら、その連は進むのを止めてしまっているようでした。
 今日の朝の打ち合わせでは、うまくいけば今日中にヤルダンを抜けられるかもしれないと、案内人が話していました。もうずいぶん前に太陽は頂点を過ぎてしまっていますから、急がないと、今日中にヤルダンを抜けることが出来ません。

「こんな時に、なんだ。おい、俺は後方を見てくるから、ここを頼む」

 寒山は、自分の補佐の男に指示を出すと、愛馬の頭を後方に向けて、その脇腹を蹴りました。



「だから、言ってるじゃないですか。もう、彼女は限界なんですよ。少しでもいいから休ませてあげてくださいよっ」
「関係ない奴が何をぬかすっ。ほらっ、立て、歩けっ」
「止めてくださいっ!」

 大きな声を出していたのは、先程、寒山の脇を走り抜けた案内人の男と、交易隊の護衛をしている男でした。護衛隊の男は、持っている槍の尻を案内人の男の方に振りかざし、案内人の男はその前で身体を大きく広げて、何かをかばっているようなしぐさをしていました。
 激しく言い争いをしている二人の横で、一本の縄で繋がれた数人の奴隷が、迷惑そうな顔をしながら立っていました。縄の端は地上に向けて垂れ下がっており、案内人の背中に隠れていました。

「あの男、たしか、王柔とか言ったな。なぜ、案内人がこんなところまで下がってきて、護衛隊の男と言い争いなんぞしているのだ」

 寒山は、状況を良く確認しようと、「何をしているんだ、お前たちっ」と大きな声をあげながら、言い争いをしている二人の真ん中に、馬を進めました。
 その時、馬上から見下ろしている寒山の目に、王柔の背に隠されているものの姿が入りました。
 そこには、奴隷の中で最も年若い、子供と言っても差し支えのないような少女が、横たわっていました。彼女が全身を大きく動かして、荒い呼吸を繰り返しているのが、遠目にも良くわかりました。

「隊長様、勘弁してください」
「俺たちは何もしてません。悪いのは、あの子です。お叱りなら、あの子をお願いしますっ」
「俺たちが歩くのを止めたんじゃありませんぜ。あの、横から入ってきた男が護衛の人からかばうのを良いことに、あいつが休んでいるんですよっ」
「俺はいつも遅れないように歩いてました。本当です、本当ですよ、隊長様!」

 突然に交易隊の隊長である寒山が馬に乗って現れて、自分たちを見下ろしながら一喝したものですから、奴隷たちはびっくりしてしまいました。たちまち、立ち止まっているのは自分たちのせいではない、あの少女とあの男が悪いのだ、お願いだから自分たちを罰するのはやめてくれ、との言葉が、彼らの口から次々に飛び出してきました。
 仲間を売っているように見える彼らでしたが、もともと、彼らの内に仲間意識などはありませんし、実際に起こった出来事は彼らの言うとおりでしたから、彼らがとばっちりを恐れて必死にまくし立てるのも、当然と言えば当然のことなのでした。


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