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言葉はちょっと分からないくらいがちょうどいい

こんにちは。おかわかです。
ハノイでの生活も1年が経とうとしています。
しかし未だに、ほぼベトナム語は話せません。ベトナム語のレッスンも半年以上通っていますが、なかなか。

そしてよく、ベトナム語全く分からない話をすると、
「そんなんでどうやって生活するん?」
「言葉が分からないなんて不安すぎる、大変ね」
ということを言われるのですが、私は

「ふとした時に聞こえる言葉は、ちょっと意味が分からないくらいがちょうどいい。」と感じることがあります。

今回は、言葉が分からない環境はネガティブなことばかりではないこと。
「むしろ心に優しい時もある」ということについて書いてみます。

どういうことかというと、外国語しか聞こえない環境下では、


関係ない話に心を削ることが減ります。


日本語に囲まれていると耳に入ってくる内容ほとんどが理解できます。
しかし時々、耳に入ってくる内容が理解”できてしまう” と感じる場面があったのです。

例えばカフェや電車の中。自分とは全く関係のない話だとしても、特に他人の会話に集中していなくても、言葉はいとも簡単に飛び込んできます。


「本当は誰にも言うなって言われたんだけどさ……」
『じゃ、言わないであげなよ』
「普通そこは参加するよな!? なんであの時~来なかったわけ?空気よめよなぁ」
『なにかあったんだな。今回はしょうがないか。で終われないくらいのことが過去にあったのかな。なんか苦しい世の中だなその人にとって。いやというより、その人がその環境作っちゃったのかな、いやでも』


といった感じに内容が飛び込んでは、意図せず感情が生まれて関係ない他人の話にぐるぐるぐるぐるる。
日本だと公共の場で、なんの前触れもなく会話が聞こえます。
特に疲れ切っていてそもそも自分の考えがあまり巡っていない時ほど、いろんな種類の言葉が頭に入ってきて余計に疲れることがありました。

しかし言葉が分からない環境だと、カフェに来て横の人がなにか喋っていても、母語に比べて集中しない限り内容を捉えることはできません。無になりたいときは、本当に無になれます。誰かの会話は、意味が分からないわたしにとってただのBGMでいてくれます。疲れた心に、土足で入ってくる言葉はありません。

言葉がすんなり伝わらない生活には不便もありますが、
なんでもない日。仕事行って、おうちに帰ってのような日常においては、
言葉がちょっとわからないくらいが、心の健康を保つためにはちょうどいいと感じています。

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