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読書記録 | フォークナーの「サンクチュアリ」から考える「聖域」を穢すということとは

訳者によるこの小説のあとがきにあるフォークナーの小説は、本を読み慣れた人が数回読み直しても、物語の全容が掴み難いという説に私もまったくの同感である。

作者はアメリカを代表する作家でありながら、なかなか小説の人気が出なかったのは、この難解な作風に一因があるとされている。

まずもって、以前通読した「サンクチュアリ」においては、「彼」「彼女」やファーストネーム、ラストネームがことあるごとに入り交じり、誰のことを指しているのか読みながら、頭がこんがらかることがしばしばあった。 

また、あの時に誰がどうなったかという点が、あとがきを見てはじめて“そういうことだったのか”と理解したものもある。

とにかく文としてはすらすら読めながら、表現が至って抽象的な上簡潔であり、場面展開も唐突であるため、読者はじきに作中における人間関係と時間と意識の流れを整理するのに難儀することと思う。

──しかし、わたしの思うそれらのことは、決して批判めいたものではなく、作者の巧さとリアリティ溢れる作風に対する、尊敬と羨望に満ちた雑感なのである。


では、この小説の「聖域」というものは何であるかを私なりに考えてみたい。

やはりまずは、この小説の最大のテーマといえる「強姦」である。

何も世間を識らず、華やかな日常を過ごして来たであろう少女と女性のはざまの女性の貞操が、ある日突然奪われてからというもの、廃人のように荒んでゆく様は、目を背けたくなるものがあり、如何にして人間の理性や正常な判断力を狂わせてゆくかを、作者は巧みに表現している。

言わば真っ当に生きているとされる女性の身体と貞操という「聖域」へ、無断で乱暴に踏み込まれ冒されるという「不条理」が形作られている。

勿論、作中に「聖域」を踏み荒らしている悪党の、異常者たるルーツについても分かりにくくではあるがきちんと汲み取っている。

また、この難事件の解明に主役格である判事が、己を賭して奔走している。
これもつまり、事件の触れられなかった事実を掘り下げてゆくという「聖域」に踏み込む行為であるといえる。

つまり作中において、あらゆる人物があらゆる面での「聖域」に足を踏み入れ、踏み入れられるという事が起きていると言えるのではないかと私は感じる。

作者には、人種という見えない壁に葛藤し、無情にも滅んでいった人物の事を書いた「八月の光」という長編大作がある。

こちらも同様に全容を掴み難い作品ではあるものの、今回の「サンクチュアリ」に引けを取らない程読み応えあり、人間の本質を問う森閑とした響きがある作品であることから、フォークナーを読むのであれば、まずこの二作を読むことを薦めたい。


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