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正欲/感想

あってはならない感情なんて、この世にない。
それはつまり、いてはいけない人間なんて、この世にいないということだ。

第34回柴田錬三郎賞受賞作。

『あなたの想像力の外側を行く、気迫の書下ろし長篇。』と紹介されている、多様性を安易に謳う現代の傾向に疑問符を投げかける一作。

「自分が想像できる"多様性"だけ礼賛して、秩序整えた気になって、そりゃ気持ちいいよな」

パンチを食らったような気分になる問いかけに、読み手の多くが面食らったことだろう。だが私は寧ろ冒頭の「あってはならない感情なんて、この世にない。」という一文に胸がざわついた。清々しいとすら感じるほど言い切っている。そのくせ「そりゃ気持ちいいよな」だなんて、どこか恨みがましい文句だ、矛盾を感じずにはいられない。

何らかの葛藤を抱える人物が一人内側を肥大化させながら世を見つめる姿を想像しながら頁を捲った。



以下読んだ人向け。


非マジョリティへの親和性


この一冊は読み手が所謂マイノリティに該当するような、少なくとも大多数に該当するとは思えない何らかの価値観を抱え生きてきたかどうかによって見方が変わる気がする。

長くなるのでここでは割愛するが、私自身は『マイノリティを自身の内側で一般化(普遍化)させて生きてきた』タイプなのでどちらかといえば登場人物たちの抱える葛藤には思い当たる節があった。

「普通って何?」という疑問を抱え生きてきたのは、ひとつマジョリティに自身が該当すると思えない点があったからとも言える。私は私の葛藤の過程で当初自分をカテゴライズすることから安心を得た。しかし同時にその閉塞的な安心感を疑問視し、最終的にはそのラベリングを剥がして捨てた。型にはめることの意味の無さを思い知ったからである。

同じ過程を通過してきた者以外にはいささか抽象的過ぎて何のことやら…と思われたかもしれない、本題に入ろう。

フェティッシュの幅広さとマイノリティという型

物語は冒頭三名が児童ポルノ容疑で逮捕されたところから始まる。

正欲と題されたこの本全体がもし小児というジャンルの性愛について「しかたないじゃん、あってはならない感情なんてない」と語ろうもんならどうしようかとヒヤッとした。私は子どもがいかなる害を被るのも断固反対の意思を持つため、このままでは確実に問題作というフィルターがかかってしまう。

しかしそれは違った。夏月や佳道、そして大也は水を対象とした性愛を持つと描写されている。一旦の安堵。

正直私は水という対象を性的に見たことは無い。見ることもないし、多分その様に感じろと言われたとしても無理な話だ。つまり彼ら同様に感じることは不可能ということになる。しかしそれは理解できない、という意味ではない。同じ立場で親密に「ワカル」と共有することは出来なくとも、そういう人がいても別におかしくはないだろうなと思い馳せることは出来る。自分が該当しないからとてそういった趣向の人間がいることを悪とする、という思考は私の中にはない。その考えは恐らく私自身が嫌悪する対象とイコールでない限り当てはまると思われる。

物語全体がマジョリティとマイノリティの二項対立の様に感じられるのがどうも疑問に思えた。確かに対象が特殊であることは極めてマイノリティらしく感じられるかもしれない。加えて言えば三十代半ばである夏月や佳道はそうした普通ではない自分という存在を一般化させるのには苦労が多い時代を経てきているのかもしれない。

しかし大也はどうだろう。

否、寧ろ垣根が曖昧になりつつある現代だからこそ線引きを必要とするという意見があることを忘れてはならない、という警鐘なのだろうか。

あってはならない感情は本当にないのか

父は昔と変わらぬ価値観の中を生きていて、そんな自分を時代に合わせて変えようともしていない。それがこの人にとっては一番楽な状態なのだから当然なのかもしれないが、無理して変わろうとしている努力を見せつけられるよりは、その潔さが心地よかった。

夏月は古き良き男といった態度の父の姿を見て無理して変わろうとするより寧ろその方が良かったと述べた。「いい年」になった娘が結婚はおろか恋人を作るそぶりも見せないことを嘆かれずそういう時代だしねと無理くり納得されていることに罪悪感を覚えていたのかもしれない。互いに虚しい距離が出来ていたことを察知していたのだろう。されとてやれ結婚はどうした彼氏はどうした子どもをもうける気はないのかと矢継ぎ早に質問する様な親だったとしたらまた状況は一変したに違いない。

夏月は諦めと共に人生を俯瞰している。しかし同時にどこかで燻ぶっている。そしてそれは佳道にも共通している。三大欲求である性欲に裏切られた二人はそれぞれが食欲と睡眠欲という他の大勢と違わぬ欲に守られていることに安堵し、また執着もしているように見えた。

多様性とは、都合よく使える美しい言葉ではない。自分の想像力の限界を突き付けられる言葉のはずだ。時に吐き気を催し、時に目を瞑りたくなるほど、自分にとって都合が悪いものがすぐ傍で呼吸していることを思い知らされる言葉のはずだ。

多様性という言葉に関して言えばこれは一理あると思う。特に「自分の想像力の限界を突き付けられる」という言葉にうんうんと頷いてしまうところだが、そもそも人間の「ものをみる」という行動にはバイアスがかかっており、そこにどんな世界が実際に広がっていようと一個人が認識できるものはその者が通って来た道の範囲内にすぎず、やむを得ないと言わざるを得ない。私もこの書で様々なフェチがあることを知ったが、そもそも興味を持って調べたり実際に該当したりしない限りそういう趣向があることは知る由もないように思う。

この物語で終始私が不思議に思っていたのは水が性的な対象であること、というのはそんなにおかしいことなのだろうか。

藤原悟は捕まった、しかしそれは警察施設に侵入し水を出しっぱなしにして蛇口を盗んだという窃盗と建造物侵入容疑のためだ。水を出しっぱなしにするのが嬉しかったという供述はその趣向故なのかもしれないが、自宅でそうしていたとしても罪に問われはしなかっただろう。侵入したい、他人の蛇口を盗み、他人の(支払う)水を出しっぱなしにしたいという感情であったならば、それは「あってはならない感情」ではないだろうか。

社会的な繋がりとは、つまり抑止力であると。法律で定められた一線を越えてしまいそうになる人間を、何らかの形でその線内に留めてくれる力になり得ると。

夏月も佳道も寧ろこの性的趣向をどこかあってはならない感情だと思っていた様に感じられた。藤原は一線を越えたことで捕まったが、両名はこの線の内側に留まり続けている。それは恐らく繋がりを持たなかったのであろう藤原に同情してのことかもしれない。せっかく共有できたかもしれない感情の行く末が刑務所だったと知って落ち込まない者などきっといない。どうにか閉じ込めて爆発しないよう、平穏を装い生活する虚の日々はさぞ無であろう…

いてはいけない人間なんて、この世にいない

世界にはきっと、二つの進路がある。
ひとつは、世の中にある性的な感情を可能な限りすべて見つけ出そうとする方向。規制する側の人間ができるだけ視野を広げ、”性的なこと”に当てはまる事象を限界まで掘り出し、一つずつに規制をかけていき、誰かが嫌な気持ちを抱く可能性を極力摘んでいく方向。
もうひとつは、自分の視野が究極的に狭いことを各々が認め、自分では想像できないことだらけの、そもそも端から誰にもジャッジできない世界をどう生きていくかを探る方向。いつだって誰だって、誰かにとっての、”性的なこと”の中で生きているという前提のもと、歩みを進める方向。

私はこの二つの進路の内の後者の方がより現実的だろうと思う。想像できない世界をあぶりだし規制を掛けようとしても無理がある。また、そうした世界に生きる者自身が最も苦労していることへの配慮も忘れてはならないように思う。いてはいけない人間なんて、この世にいない。私は一線を越えない、ということが意を同じくしない者にとっての世界の為に重要であるように思う。

皆いつも、何かを確かめるように尋ねては、自分は正しいと、すなわち多数派だと確信させてくれる誰かと笑い合っていた。その誰かに、自分が選ばれることはなかった。

「無敵の人とか最近よく聞くけど、皆そうだよね」
夏月が呟く。
「皆もともとたった独りで、家族とか友人とかがいる期間を経て、また独りに戻るだけ」

どんな人も孤独で不安なのだということ。同じ気持ちであるかどうかを共有しながら安心を重ねているだけ、ということ。その安心ですら、本物かどうか分からない。マジョリティ側であっても、きっと自分の島かそうでないかと部を分けたがる人間はいる。程度の差こそあれ、本質的には変わらない。

令和という新しい元号を迎えるためのカウントダウン、価値観のアップデート、多様性…新しいソレに誰もがちょっとした期待と不安を感じたことを思い返す。赤信号みんなで渡れば怖くない、的な考えに待ったをかける一抹の不安を描写した小説の様だったと感じた。


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