見出し画像

日常生活をちょっとだけ豊かにするツール。地酒は「民藝的であるべき」ということ。

「地酒」という言葉がある。
その字面どおり、「地域・地元」で造られている「日本酒」のことだ。
いろいろな酒蔵を取材していると、よく「真の地酒とは……」という話が蔵元さんから出る。

たとえば、その地域で造っているというだけでなく、その地域の米・水・人で醸してこそ、それは「地酒」と言えるのではないか、とか。
東京で飲まれている有名なお酒が、実はその酒蔵の地元では流通されていない、なんてこともある。それって本当に「地酒」ですか?と疑問を呈する蔵元さんもいるわけだ。
「真の地酒」を造ろうと、以前は他府県から仕入れていた米をやめ、地元で栽培されている米だけを使ってお酒を造ることにした蔵もある。

かと思えば逆に、「なぜ地元の米に固執しないといけないんだ?」という蔵元さんもいる。ワインの場合、原料がぶどうだから、その地域で醸す文化が根付いたが、日本酒の原料は米。穀物は長期間・長距離の流通が可能なのだから、より良い酒ができる品質の良い米を他府県から仕入れて何が悪い?という考えだ。

これはどちらがいい、どちらが正しいというものではない。
昔から「酒屋万流」という言葉があるように、酒蔵にはそれぞれのやり方がある。優劣もなければ、正しい・間違いもない。
わかりやすく言えば「みんな違って、みんないい」というわけだ。

だから、これから私が書く話も、それが「正解」ということではない。
だが、最近私が取材した中で、ある蔵元さんから「地酒とは……」という話を聞いたときに、自分の中で「すとん」と腹落ちしたことがあったのだ。ああ、そういう表現があるのか、と。

その蔵は、静岡県沼津市にある高嶋酒造。創業1804年。「白隠正宗」という銘柄の酒を造っている。
蔵元さんはまだ40代と若く、柔道五段、かつてはクラブDJをしていたこともあるという珍しい経歴の持ち主だ。
小さな蔵ではあるが、雑誌「dancyu」の日本酒特集には毎年のように何らかの形で取り上げられていることもあり、知名度もある。何より蔵元・高嶋さんのキャラクターが際立っている。

正直に言えば、少し大柄で髭を生やした風貌から、ちょっととっつきにくい怖い人なのかなと思っていた。話してみると、やはりズバズバと物を言う。こちらがしょうもない質問でもしようものなら、正論でやりこめられる。
だけど、礼儀正しく、常識的なバランス感覚を持った方で、たぶん「味方」になったら、これほどたのもしい人はいないと思えるような人。
何より酒造りに対してまっすぐで、信念があり、それはそれは見事なほど一本筋が通っている。情熱があり、勉強熱心。謙虚だが、権威に屈したり、媚びへつらうようなことは最も嫌うタイプ。

そんな高嶋さんが造る酒は、今どきの流行りの酒とは異なる。
今は、少し甘めで軽い酸が際立つようなお酒が好まれる。微発泡でジューシーな飲みやすいものもある。私もそういうお酒は普通に好きだ。
一方、相変わらずカプロン酸エチル系の、いわゆる「吟醸香」が際立つ大吟醸なども、一部ではありがたがられている。こちらは私は苦手。

高嶋さんが造るお酒は、そのどちらでもない。
米の旨味は感じられるけれど、際立った甘味や酸味はなく、辛口でキレがよい。新潟酒のように淡麗辛口というのでもなく、穏やかな辛口とでも言おうか。派手さはないから、ひと口目の印象は薄いが、いつまでもだらだらと飲み続けられるお酒だ。「真の酒飲みのための酒」と言ってもいいかもしれない。さらにこれを燗につけると、また別の旨さが出てくる。
今どきのお酒が好きな人にとったら、ちょっと好みとは違うなと思うだろう。だけど、食事と合わせて飲み続けていたら、きっと「お酒って本来こういうものなんだ」とわかる。料理と合わせてバツグンに力を発揮してくれるお酒だからだ。

高嶋さんは自分の蔵のコンセプトをこう言った。
「この地でしか造れない地酒を最高のコミュニケーションツールに」

これは酒造りをするうえでのフィロソフィー(哲学)だとも語った。
奈良の「みむろ杉」という酒を造る今西酒造さんを取材した時も、今西さんが「うちには醸造哲学がある」と語ってくれたが、最近この「醸造哲学」を持ち、それに基づいて酒造りをしている酒蔵さんというのは、造る酒のタイプは違っても、根強いファンがいることを感じる。それは造り手がぶれないからだ。
酒なんて嗜好品だから、万人に好かれるものなんてない。だからこそ、「こういう酒を造りたい」という醸造哲学が必要で、そこに惹かれる人たちが集まってくるのだと思う。

高嶋さんは、自分の地元である静岡県の沼津が干物の名産地であり、そういう食文化に合う酒こそが「真の地酒」になるのではないかと思い、自然にそういう酒を造り始めた。そこには自分の好みや流行りに乗るような気持ちはまったく排除されていたという。
結果的に、食事と合わせてだらだらと飲み続けて飽きないような酒になった。そして、それは人と人をつなぐ最高のコミュニケーションツールにもなった。

そこまで取材で話を聞かせていただき、すでに感動していたのだが、最後に話されたことがとても印象的だった。
取材の途中から、事務所に置かれている「芹沢銈介」の分厚い本が気になっていたのだが、やはり高嶋さんの口から「民藝」と言う言葉が発せられたのだ。

民藝。
約100年も前に思想家・柳宗悦が説いた「民衆的工藝」のことだ。日々の生活の中に本当の美と豊かさがあることを大事にし、その素材や作り手に想いを寄せることを主張した。
その考えに賛同したのが、陶芸家の河井寛次郎であり、濱田庄司、バーナード・リーチなどで、染色家の芹沢銈介もその一人だ。

なんだか最近、民藝が見直されているのか、いろんなところで民藝展が開催されていたりもするが(うれしいことだ)、私は10代の頃から民藝の世界が好きで、家の中はその流れを汲むような作家さんのうつわであふれている。(そのうち民藝については別の記事にしたいと思う)

そんなわけで、高嶋さんが最後に私がした「地酒とは?」という質問に対して、こう言われた時は本当にドキドキした。

「地酒は決して華美なものではなく、民藝的なものであるべきだと思うんです」
「民藝とは、あの、柳宗悦や濱田庄司の……?」
「そう、その民藝です」

高嶋さんは私がすぐに民藝と言う言葉に反応し、きちんとした知識を持っていたことにホッとしたようだった。これは話が通じると思われたのだろう。

「彼らが日常生活で使われる雑器に”美”や”豊かさ”を見出したように、地酒も華美で特別なものではなく、普通に生活の中にあって、日常を豊かにしてくれるものなんじゃないかな。地酒って、そうあるべきだと思う」

すとん、と落ちた。
音が聞こえるかと思ったくらい、本当に「すとん」と。
今まで誰が語ってきた「地酒とは?」よりも、自分の中で素直に腹落ちしたのがわかった。

そうだ、そうなんだよな。
もちろん高価な大吟醸を特別な日に開けるのもいい。だけど、地酒って、本来は生活の中にあるもの。料亭での食事なんかじゃなくて、毎日のおうちごはんと一緒にあって、普通の干物も煮物もおいしくしてくれる。それはどれほどに日常生活を豊かにしてくれるだろう。
もしそこに一緒に食事を楽しむ人がいたなら、それは最高のコミュニケーションツールにもなる。
「地酒は民藝的であるべき」
この言葉に心から賛同した。

今回の記事を私はこうまとめた。

ただひたすらこの地でしか造れない地酒を造る。それを手に取ってくれた人がだらだらと楽しく飲んで、翌朝「昨日の酒はうまかったな」と思い返す。その酒が誰かとのコミュニケーションツールになっていれば最高だ。
高嶋氏のそんなシンプルな想いが、「白隠正宗」を通して人々の日常を豊かにしている。

「酒蔵萬流」37号より抜粋

高嶋さんは、一本筋の通った、醸造哲学を持った蔵元さんだった。
私もまた誰かと一緒に「白隠正宗」をだらだらと飲んで楽しい時間を過ごしたいと心から思った。

★酒蔵萬流についてはこちらから


この記事が気に入ったらサポートをしてみませんか?