私のワンオペ介護と介護離職と毒親族の話

私はよくプロフ欄に「闘病と介護で20代潰れた」と書いている。
そのままの意味だが、これから高齢者が増え一人っ子の人達に向けて介護うつや介護離職が直面する未来が来ると思うと、なるべく早く私のようなケースがあることを公開したかった。

■約20年間、人生の半分以上が介護

私の父親は長男だったので、祖父母が同居していた。

 祖父母の介護は親の介護よりもワンオペになることはあまりない。
だいたい自分の両親や配偶者、他の息子や娘達に頼るからだ。
だから20代で介護うつと介護離職を経験する方が(おそらく)少ない。

 私の実家では私が小学校高学年から認知症の祖父の介護が始まったが、その時は父子家庭でも祖母、姉、兄等のきょうだいがいたからマシだった。

 たとえ祖父が徘徊したり暴れてガラスを割ったりお風呂を空焚き(全焼)してボヤを2、3回起こしたとしても、父親と兄という力がある男性がいてくれただけで心強かった
(祖父は元々癇癪持ちで怒ると普通に暴力をふるっていたので、認知症になったあとは力加減ができず全力で暴れる祖父を取り押さえるのがとにかく大変だった)。姉や私の役割は家事が中心だったが、従業員のまかないも作っていたのでとにかく作る量が多かった。

 私が高校3年の時にようやく祖父が死んだ
(私は死んで欲しい存在には「亡くなった」ではなく「死んだ」と表記している)。

 私が小学校に上がる前から従業員を怒鳴りつけたり、祖母に殴る蹴るのDVをしていたので、正直寝たきりにならずもっと早く死んで欲しかった。
 おそらく私は祖父の従業員に対するパワハラが原因で従業員達から虐められたり性的虐待を受けていたのだろうから。

 しかし祖父が死んだ半年後から祖母が倒れることが多くなり、ほぼ切れ目なく介護は続行された。姉と兄は結婚して実家を離脱、緊急時に祖母を看られるのは父親と私だけになった。父親は経営者だったので実質私だけのワンオペ介護である。

■自分が毎年入院しながらも介護

 私が20代前半のころ、兄は実家を継がずに出て行った。
 私は19歳の時にうつを発症して起き上がれなくなり、精神科に通院を開始したが、それでも兄が実家にいるまでの23歳くらいまでの私は、比較的将来に向けてやりたいことができていた。

 それからあとのことはどう考えても私の努力不足とかそういうやる気の問題だけでは絶対に解決不可能な状態にあったが、祖母の子供達である叔父叔母は私を「使えない姪」くらいにしか見ていなかった。

状況を整理すると
・23歳までに4回は自殺未遂(失敗)して、その後祖母・父・私の三人暮らしになる。
・23歳~29歳まで精神科に6回入院し、
・摂食障害で肺炎になってプラス1回入院して死にかけた。
6年間で7回。毎年1回以上は必ず入院していたことになる。

 期間は10日~3ヶ月と様々だが、とにかく入院するほど心身の状態が悪かったのは事実だ。

 そして祖母が死んだ時も、その2ヶ月前まで入院していたが、無理やり退院した。家族と親族が、祖母の具合が悪いからと私に早期退院を迫ったからだ。

 その結果退院後うつが悪化し、真夏なのに連続で40日以上、祖母が死ぬまでお風呂に入れないほど私自身が無気力で寝たきりの状態が続いた。

 祖母は死ぬまでの数年間、だいたい深夜2時~4時の間に急変して救急車を呼んでいたので、いつ具合が悪くなるか分からない私は朝まで眠ることが出来なかった。眠っても結局起きることになったら嫌だから常に緊張していた。救急搬送されたら朝5時、6時まで処置室の前で待機。特に死ぬ前の半年間は急変が10回あった。
 これでは昼夜逆転の生活にならざるを得ない。これが身体面だけでなく精神面の負担にならない方がおかしい。

■介護離職で精神状態が悪化

 私は臨機応変が大の苦手な発達障害なので、いつ容態が急変するか全く読めない祖母の介護との相性は最悪だった。

 私は20歳の時に、いつ実家を出ることになっても良いように通学しながら介護ヘルパーの免許を取得し、自分の入院と入院の間に生活のために何度も短期派遣で仕事として介護をしたが、プライベートな介護と仕事の介護では精神的な負担が段違いだった。

 仕事なら時間が来たら離れられるし、何より給与が発生する。
 しかし身内の介護は24時間365日、いつ急変するか分からないから精神的に休まる瞬間がない上にタダ働きである。身内だというだけで。

 そして9月に祖母は死んだ。
 
 私は当時は周囲に責められていたので自分を責めていたが、私が眠れなかったのも、精神状態が良くならず入退院を繰り返していたのも今にして思えば当然の話だ。

 仕事が始まった次の日に祖母が入院して退職せざるを得ないこともあった。

 障害年金がなかったら生活費は無かった。
父親は基本的にお金を出さない。学費以外に必要な出費は、中学時代から実家の店で他のパートさんと同じようにアルバイトしたお金でまかなっていた。欲しい携帯もパソコンも全部自分が働いて稼いだお金で買った。
 しかし障害年金が支給されるようになると、私の命綱である障害年金すら父親は会社の借金返済のあてにして私は何度も貸した

 障害年金の存在を知るまでの私は風俗で働いていた。障害年金のおかげで風俗をやめることができた。親からの経済的支援は「うちには金がない」という理由で拒否された。

 祖母が死んだのち叔父や叔母らは感謝や労うどころか「なんでもっとちゃんと介護出来なかったんだ」「お前がしっかりしていなかったせいで母さん(祖母)は早死にしたんだ」と私を責めた。

意味がわからなかった。

 祖母は84か6くらいの大往生、何度も発作を起こした割には粘った方だと思うからだ。 
 しかも私は毎年入院し、途中で障害者手帳を取得したレベルの病人だ。
 病人が病人を充分に介護できないのは当たり前だ。働けず介護をしている私に多少の経済的援助くらいして欲しかったし、そんなに完璧を求めるならプロの訪問看護や家事代行サービスを雇う方が100倍現実的だ。

 そもそも叔父叔母が私を攻撃してきた理由は、祖母が私のことを被害妄想全開であることないこと子供(叔父叔母)達に吹聴していたからである(ちなみに私の姉にも愚痴っていたので姉からも攻撃された)。祖母も毒祖母だ。
 だから叔父や叔母達は文句を言いに来るだけで、私には一切の経済的支援をしなかった(厳密に言えば祖母が死ぬ前に叔母が若干工面してくれたが、その後難癖をつけて返せと言われたし、その後ずっと叔母には憎まれている)。

 (ちなみに訪問介護を頼んだことがあるのだが、看護と違って介護の基本は本人の「自立援助」だ。ヘルパーさんは利用者を見守り不自由度に合わせてサポートする。だから家事をやらされた祖母は怒って「二度と頼まない」と言っていた。もちろん自由度の低い高齢者介護施設(老人ホーム)に入る気もさらさらなかった)

■介護をしても最期には立ち会わせてもらえなかった

 祖母が本当に最期の危篤になった時、私はICUから締め出された。
他の身内はみんな通したのにも関わらず、最期までほぼ一人で入退院を繰り返すほど精神状態が悪く、仕事に就くこともできず、常に半分寝ている状態でも無理やり起きて介護していた私を叔母や姉は死に目にあわせなかった。
 腐っても一応母親の代わりに私の面倒を見てくれた祖母には、耳が聞こえているうちに最後のお礼と不甲斐ない孫でごめんなさいと伝えたかった。

それでいて祖母の死後の雑用は全部私と姉兄にやらせた。

死後の手続きは本当に大変だった。


叔父叔母と父親達は、祖母が亡くなったショックで茫然自失状態で実質何もしないでただ悲嘆に暮れていた悲しみにくれる余裕があるなんて、本当に呑気なご身分である。

 祖母が死んだ直後「どうしよう…」と叔父叔母達が言っているのを見た私こそ「どうしよう」と思った。

 私の場合は<急死ではなく心臓病の発作を何度も起こしていて主治医から何度も「長くない、いつでも危篤になる可能性があるので覚悟してください」と言われていたのに何が今更「どうしよう」だ。本当にこの人たちどうしよう…>といったニュアンスの「どうしよう」だ。

 ここまで来て大の(私より社会経験も豊富で健康で働ける)大人達が1から10まで何の役にも立たないとは思わなかったのでさすがに衝撃を受けた。
 父親に至っては、完全にパニックで正気を失っていて会話や意思疎通がろくにできない状態だった。葬儀の喪主として挨拶をするだけで精一杯だった。

■意味がわからないことの連続

 全く役に立たない祖母の子供達(叔父叔母)の代わりに、姉兄と私は口座が凍結される前に祖母名義の預貯金の引き出し(一番大事。死亡診断書を出すと凍結される)、親戚や町内会周りへの連絡、火葬場の予約、斎場の手配、香典リストの作成(どこの誰からいくらもらったか等)、祖母の遺影画像の作成(私はPhotoshopを使えたので通夜に間に合うように寝ずに作成して業者にデータ送信)、祖母名義の生命保険の死亡保険金の申請、香典返しの手配、等々と連日徹夜の作業が続いた。

 葬式の次の日から弔問客の対応以降の作業は私一人でやった。父親は経営者なので休むわけにはいかないからだ。ただでさえ毎日ギリギリの自転車操業で綱渡りな経営だった。

 なぜかわからないが兄夫婦は葬式直後に旅行に行ったにも関わらず(兄嫁が妊娠していて今後しばらく旅行行けなくなるからだと言われたが、旅行よりも実家でつい最近退院したばかりの私を手伝って欲しかった)、
祖母の死後1週間後に私の親友の結婚式に参加した私は姉兄や叔父叔母から非難された。

意味がわからなかった。

 亡くなった祖母とは違い、これからの人生を生きる大切な親友の一生に一度あるかないかの結婚式に行くだけであれだけ「非常識だ」「不謹慎だ」と責められるとは思わなかった。これだけ理解不能で理不尽な思いを連続で経験するとは思わなかった。
 結婚式の二次会で私が暗い顔をしている(失礼すぎる)私に気づいた親友に事情を説明したら、すごく心配してくれて式の翌日にも関わらず次の日実家に来てお線香をあげてくれた。私は親友が優しすぎて泣いた。親族より他人の方が優しくて情けなくもなった。

■死後の雑用もほぼワンオペ

 介護だけでなく死後の雑用もワンオペである。

 49日の忌明け法要の手配、日程を決めて親族へ連絡、喪中はがきリストの作成(祖母も喪主の父親も会社経営をしていたので、取引先など数百枚単位でリストを作り作成する必要があった)、祖母の死を知らずに年賀状を送ってきた人へ寒中見舞いの作成(これは180枚くらいで済んだ)等々…。
 叔父叔母達は私に会うたびに文句や愚痴をぶつけてきた。きっと私の立場が弱いから言いやすかったのだろう。
 叔父達が実家に来るのは、実家に残っていた金目の物を漁りにくるときくらいだった。ドクズとしか言いようがない。祖父母も毒親だったし、父親も含め祖父母の子供全員が毒親族だった。

 寒中見舞いを出し終わったとき、私はあと3ヶ月で20代が終わることに気づいて絶望した

 ここでは省略するが20代のうちにやりたい仕事や積みたいキャリアがたくさん、たくさん、明確に、あった。

 全部潰れて白紙になって数年後、私は実家をやっと脱出し生活保護を1年間受給しながら人生をやり直すことになった。

 この時の私はもう33歳だった。

■23歳から33歳まで職歴がほぼ空白

 23歳から33歳までまともな職歴がない。
 障害年金すら借金返済のために搾取されていたので貯金はほぼなく、引越し費用と揃えた家電で尽きた。だから生活保護を受給せざるをえなかった。
 ちなみに主治医に言われて知ったのだが金銭的搾取も虐待らしい。私は役員で支店をリニューアルしたりなどして父親の会社の経営を手伝っていた時期もあったが、どんなに働いても会社からは月に1万円の役員報酬しか支払われなかった。当然、貯金など貯まるはずがない。

(以下は蛇足)
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 福祉課の職員に事情を話したら「それって物理的に生きていけませんよね…」とドン引きされた。そう言われればたしかにそうだなと思ったし、本当に恥ずかしいし情けないし申し訳ないと思った。そして、赤の他人の方が優しいと思った。
 ちなみに満額受給したのは1ヶ月だけで、すぐにパートに就き働きはじめた。といっても体力がないので最低生活費より下回った金額の差額が支給された。1年間といえど、お世話になった生活保護の制度には本当に感謝しかない。
 ケースワーカーの担当の方もいい人ばかりで、身内よりも他人の方がずっと病気に配慮してくれて優しかった。だからこそもう二度と生活保護のお世話になるつもりはない。これからの私は残された人生の中で、社会から助けてもらった分、少しでもお返しするために生きようと思っているからだ。

 生活保護を受けざるを得ないほど困窮していたのは、完全に周囲が原因だった。だからもう繰り返さずにまずは経済的には自分の為に生きて、そして経済的、精神的な余力があれば他人を助ける。精神面はともかく経済的な面で一人で生きられないなら生活保護より死を選ぶ。
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 介護離職に陥ってしまうと自分のために生きることが困難になる。下手をすれば私のようにキャリア形成の時期に職歴を失うことになる。やたら空白期間が多くて雇いにくいだけの障害者が求職活動をしたところで、採用側に一切の事情など関係ない。現時点ではそこまで理解されることは少ない。
 特に精神病を患うと病気を隠して働くのは難しく、障害者枠での就職活動を視野に入れる必要が出てくる。

 だから介護離職や介護うつ(と何もしない親族達)がどれだけの足かせになるか、知られて欲しい。

 それにしても、40を間近にした今でも祖母のワンオペ介護を見て見ぬふりして文句だけ言っていた叔父叔母達のことはどうしても許せない。

 20代のキャリア形成の貴重な時期を自分の為に使えず、まるまる介護に費やさざるをえなかった私の人生の今後の見通しは、圧倒的に不利になった。
 家族や親族の言いなりになることは、頑張れば頑張るほど無駄なことだった。といって途中で抜け出すこともできずに身動きが取れなかった。
 私の人生を潰しても何とも思っていない父親と親族達は死ねばいいのにと今でも思う。

■祖父と祖母は死に、私も死んだ

 私は、けして誰かに対して「死んでくれてよかった」と思うような人間になどなりたくなかった。

  でも色んな人間にそういう感情を抱くようになってしまったのが悲しい。
解離性障害はもちろん悪化した。
きっと自分の殺意や憎しみを封じ込めようとするからだろう。
2013年以降の私は確実に前の私ではなくなった

 自分が他人よりも特別不幸だとか、辛い目に遭っているとは思わない。
かわいそうな自分アピールだとか、被害妄想だとか、頭がおかしいとか思われても仕方がない。実際に残念な生い立ちだし、私の辛さは主観の話で私にしか理解できないのだから。

 ただ色んな人に死んで欲しいと思うようになって、実際に何人か死んで、「我ながらよく生きていたな」と思っていた当時の私も2013年に死んだ

「今の自分」は記憶のみを引き継いで0から再構築した自分だ。定着するのに半年くらいかかった。だから当時のことは他人の昔話のように話せるし、フラッシュバックもしない。
 そのうち別記事にするかもしれないが、何を言っているのか理解されなくてもいい。私自身が理解できないのだから(別に妄想とかスピリチュアルとかそういう話ではない解離性障害の症状だ)。

 不甲斐ない弁解や言い訳にしか聞こえないかもしれないが、このたび再度無職になったので時間がある今、その事実を記録に残しておきたかった。

ちなみに、両親はまだ生きている。2人をどうするかが目下の問題である。

■まとめ

・仲が悪い身内の介護はきつかった
・臨機応変に対応できない発達障害の私は介護に向いていなかった
・結果、発達障害の二次障害の精神疾患を引きずり今に至る
・介護の問題だけは早いうちに家族や親族と話し合い、誰がどうするかの役割分担の対策をすべきだと思う

・女性ほど家族の中で当たり前に介護のケア要員にされやすいのは深刻な問題だ。私が男性だったら、兄のように家を出てキャリアを築いても親戚中から非難されることはなかっただろうから。

いただいたサポートは私の精神的な回復(PTSD治療費)に充てさせていただきます。