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スケッチブック

 ポケットから取り出した時計の針は2時半を指している。ランチタイムの慌ただしさが引けたホールは、穏やかな時間を取り戻していた。

「お客さまがみえました」
 それまで談笑していたスタッフが即座に反応する。
「待ちなさい、君たちはそろそろ休憩の時間だ」
 アルバートチェーンのついた懐中時計をベストにしまうと、給仕長は若いスタッフの肩をポンと叩いて言った。
「私がご案内する」

「お待ち申し上げておりました。本日は何になさいますか?」
「ヨークシャーゴールドと、スコーン……はありきたりね。えっと、今日は何曜日だったかしら?」
「金曜日でございます」
「あ、じゃあ、キャラメルシフォンケーキをお願い。それに……」
「生クリームは多めに、でございますね」
「ありがとう、覚えていてくれて嬉しいわ」

 彼女は可愛らしい笑顔を添えてメニューを返した。
 この時間、その微笑みをお迎えできるのが、初老のメートル・ドテルのささやかな楽しみだった。

 案内されたテーブルの向こう側はアイスプラントが茂る砂浜が広がる。その中に一本の細い遊歩道がビーチまで続いていた。そして、左側の遠く、かげろうの中にマストが揺れているのがマリーナだ。

 彼女は目を閉じて、すーっと深く息を吸った。海風がここまで潮の香りを運んできている。見上げると、風を上手に捕まえたカモメが、午後の散策を楽しむ人たちを見降ろしていた。

 彼女は隣の椅子に置いた紅藤の籠バッグから、小振りのスケッチブックと筆箱を取り出した。薄紅色の筆箱には2Bの鉛筆が2本と小さな鉛筆削り。そして消しゴムが入っている。どれも手に馴染むまで使い込んであった。特に消しゴムは角が取れて丸く小さくなっていたので、決まってコロコロと転がり、落ちたはずみで何処かに行ってしまう。ところが、必ず見つけ出してくれるのがあの給仕長だ。
 彼女はそれらをターコイズ色のテーブルクロスの上にきちんと並べて置いた。

「こんにちは」
 突然声を掛けられたせいで、彼女の肩がピクンと跳ね上がる。
「ごめんなさい、驚かせてしまって」
 左手で胸を抑える仕草をした彼女は、ゆっくり男を見上げた。
「友人とここで約束をしていたのですが、どうやら忘れられてしまったようです。もし差し支えなければ、私の話し相手になっていただけませんか?」
「え、ええ……私で宜しければ」
 少し強引な気もするが、誠実で温かみを感じる男の眼に下心は感じなかった。
「あ、スケッチのお邪魔もしてしまったようだ。また出直しましょう」
 男は視線を彼女とスケッチブックの間を交互に移しながら言った。
「いいえ、これから始めようと思ったところですから。どうそお掛けになって」
 彼女はそこで初めて緊張を解いた。

「よかった。ありがとう」
「何か、お召し上がりになりますか?」
「私は先にいただきました。それにしても、ここはとっても気持ちがいいですね」
 男は椅子に座ると、両腕を上げて伸びをしてみせた。
「ええ、本当に素敵なところ」
「こちらには良くこられるのですか?」
 彼女はこくんと頭を下げたが、唇に人差し指を添えて悪戯な顔で言った。
「はい。でも、まだこちらへ来て間もないんです……誰にも内緒ですよ」

 少しだけウェーブのかかった長い髪。それをゆるい三つ編みでサイドにまとめ、大きな青いリボンの付いたつば広の帽子を被っていた。右頬にかかるひと束の髪が彼女の柔らかな雰囲気を際立たせている。


「最初は何もなくてびっくりしました」
「何もない代わりに、ここには青い空と海、そして白い砂浜があります」
「ほんとですね。それに風にそよぐ木々や、にぎやかな小鳥たちの姿も。手の届くところに命の息遣いを感じます」
「それは良かった。貴女に気に入ってもらえて、ここの皆も喜んでいます」
「みんな?」
「……ええ、ここの鳥やリスや、草花たち」
「だと嬉しいです」

「ところで何を描いているのですか?」
「あっ、へたくそだからダメです」
 彼女はスケッチブックを急いで手元に引き寄せると、恥ずかしそうに答えた。
「彼です……」
「恋人、ですか?」
「はい。少しだけ遠いところへ行っていますが、もうすぐ帰ってくるんです」
「そうでしたか……それは待ち遠しいですね」

 ケーキとポットを配るウェイターの肩越しに隠れ、はにかむような笑顔が愛らしい。そこには恋人が戻る喜びがあふれていた。

「あの、クルマは、お好きですか?」
 それは予期せぬ質問だった。
「昔、レースをやっていました。小さいレースですが、何度か表彰台の一番高い所に登ったこともあります」
「まあ。すごい! とっても速かったのね」
「あの頃は、寝ても覚めてもレース。まさにレース漬けの毎日でした」
「世の男性はひとつのことに夢中になったら、他のことはおかまいなしね」

 彼女は、左手で持ったソーサーを胸の位置まで上げると、わざとツンとしたしぐさでカップを口へ運んだ。


「貴女の恋人も……クルマ好きですか?」
「はい、それはもう!」
 待っていましたとばかり、彼女は大きな瞳をさら広げて答えた。
「どんなクルマにお乗りなんですか?」
「真っ赤なオープンカーです」
「そうですか……それはいい」
「彼ったら、映画の真似をしてドアを開けずに飛び乗るの。おかしいでしょ?」
 その様子を思い出したのか、コロコロと笑う彼女を男は眩しそうに見つめた。

「大好きな女性の前では、カッコ良く見られたいのが男という生き物です」
「いつまでもやんちゃな子供なんだから。でも、そんな彼のことが好きです。貴方は今もレースに関わりを?」
 その質問に少しだけ男の表情が曇る。

「いいえ、きっぱり辞めました」
「そうでしたか」
「私が原因で、友人に怪我を負わせてしまいました」
「……それはお気の毒に」
「幸い友人の怪我は良くなりましたが、私はダメになりました。何度グリッドについても、必ず事故の悪夢が蘇ってくる」
「さぞ、お辛かったでしょう」
「何もかもが嫌になり、お決まりの酒びたりの毎日です。あげ句の果てに、私のことを支え続けてくれた恋人まで置いて、街を出ました」

「それで彼女さんは?」
「辛い思いをさせたと思います。放浪している間、彼女に電話しました。受話器を取ってコインを入れて……。しかし、どうしても声が出てきません。何度かけても言葉が喉の奥に張り付いたように、ひと言も喋れませんでした。それから何年か過ぎた頃です、やっと短い手紙を書いて送りました。もう誰かと幸せな家庭を築いている。そう思っていたので。せめて最後に、それまでのことを全部詫びておきたかったんです」
「それで、お返事はいただけたのですか?」
「……まだ、この私のことを待っていると」
「まあ!」
 彼女の大きな瞳から見る間に大粒の涙が溢れ、ハラハラとこぼれ落ちた。
「ゴメンナサイ、泣いたりして。でも、私嬉しくて……」
「それが家内です」
「良かった。ハッピーエンドで本当に良かったです」
 彼女はそう言うと、男の手を握って続けた。
「お幸せですね」
「はい、こんなバカな男のことを何年も待っていてくれたのですから」

「いいえ、幸せなのは奥さまです」
「散々辛い思いをさせたのに?」
「貴方が、奥さまの願いを叶えてさしあげたからです」
「私が……ですか?」

「女が、好きな男の帰りをじっと待っているなんて大嘘です! 毎日、毎日、ドアを開けて、今帰ったよ!っていう貴方を信じて暮らすのがどんなに辛いことか。並大抵の神経ではつとまりません。
 でも、奥さまは、それをやり遂げた。私には分かるんです。きっと貴方は帰ってくる。どんな時もそう信じて疑わなかった」

「なぜ、そう言い切れるのですか?」
「なぜって……つまりそれは……」
「私のことを信じるに足る何かがあったと?」
「あ、そう、それです!」
「そのようなものは何もなかったと思いますが」
「いいえ、どんなに遠く離れていても、貴方は片時も奥さまのことを忘れずに愛していらした」
「ええ、それは、その通りです……」
「奥さまは、貴方がそういう人だということを誰よりもご存知なのだと思います。きっと、貴方のお母さまよりもずっと。だから、貴方を信じて待つことができた」
「誰よりも……私のことを?」

「ええ、そうです。誰よりもずっと。どうか、思い出してください。奥さまとの馴れ初めから事故が起きるまでを。貴方が奥さまのことをどれだけ愛していらしたかを。その大切な記憶が会えない間も奥さまをずっと励まし続けたのです」
「私の記憶が……ずっと家内のことを」
「直接手では触れることができない記憶。でもそれは……きっと確かな存在だったと思います」
 予想外だった。男は声が詰まり、感謝の言葉を捻り出すのがやっとだった。
「ありがとうございます」
「いいえ、お礼は奥さまへ、ですよ」

 いつのまに飛んで来たのか、ウッドデッキの手すりにカモメがとまっていた。カモメは長いこと二人の話に聞き入っているようだった。

「申しわけない。ずいぶんとお邪魔をしてしまいました」
「いいえ、とても楽しかったですわ」
「貴女に話を聞いていただけて、胸のつかえがとれた気分です」
「また……お会いできるかしら?」
「もちろんです」
「約束しましたからね!」
「はい、かならず」
 男は彼女の手を優しく握りながら、ゆっくりと頷いた。そして、丁寧なお辞儀をしてから小径をもどっていった

 道の先には、別の男が彼を待っていた。
「今日はとても良いお天気でしたね」
 男の掛けたメガネが傾きかけた日差しを反射して光る。
「お待たせしました。おかげでゆっくり彼女と話ができました」
「少しお疲れのように見えますが、お加減はいかがですか?」
「はい、大丈夫です」
「何か変わったことは?」
 男は白衣を着ていた。
「特にありません。今日はとても気分が良くて……」
「そうでしたか」

「あ……そういえば、一つありました」
「ほお、どんなことでしょう」
「今更ですが、私はこれまで幸せだったということに気がつきました」
「それは良かった。でも、遅いなどということはありません」
「慰めでも嬉しいです」
「気づきは、今まで自分の気がつかなかった重要な情報にアクセスできるようになった証です。それに気がついた時が始まりなのです」

「先生のおかげです」
「いいえ、これは貴方自身の努力の賜物ですよ」
「挫けそうになった私を、ここまで支えて下さったのは先生です」
 足元から小さな枝を拾い上げた医師は言った。
「この病は手強い。貴方の強い意志がなかったら、ここまでにはならなかったでしょう。しかし……その気持ちが強ければ強いほど簡単に折れてしまいます」
 パキっと乾いた音を立てて折れた枝は、医師の両手にそれぞれ握られていた。
「くれぐれも無理だけはしないようにしてください」
「わかりました」
「それから、先週もお伝えしましたが、残された時間はもう余り長くありません」
「はい。その覚悟はできました……」

 「来週の金曜日に」と医師に告げ、男は覚束ない足取りで自分のクルマまで歩いていった。舗装されていない坂道を登るのはかなり厳しい。鼓動が激しくなり、肺は焼けるように痛んだ。

 ひと息ついて男が振り返ると、彼女が戻るところだった。看護師が彼女を乗せた車椅子を押している。二人は何を話しているのだろう、ここからでも笑っているのがわかる。

 その時、海風が吹いて、彼女の膝に乗せたスケッチブックがパラパラとめくれた。どのページにも、若かった頃の男が描かれていた。

「かなり特殊な記憶の逆行性喪失症状だ」と医師は言っていた。これまでの記憶のうち、現在から過去のある時期がまとめて抜け落ちていく。運動機能も少しずつ弱まり、車椅子を使うまでになっていたが、普通の認知症とは違い、日常生活に重大な支障をきたしていない。

 今日は私が誰なのか分からなかった。おそらく、二十歳を少し過ぎた頃まで巻き戻されていたのだろう。そんな彼女の目に映る私は、ただ居合わせた老人に過ぎない。このまま退行が続けば、幼女に、やがては無になってしまうのだろうか。せめてもの救いは、自分が大切な記憶を失っていくという自覚がないことだ。しかし、最後の瞬間は、幸せの記憶の断片だけでも家内に残してやってほしい。

 男は自分の顔の前で手を握り、ゆっくりと開く。指が震えていた。そして裏返した甲をじっと見つめた。あちこちシミが浮いた皮膚は乾いた羊皮紙のように浮き、数えきれないシワが刻まれていた。その手に涙の雫が落ちては染みていった。

「彼女の手は……昔のように、とても温かくて柔らかだったよ」

 男の手で撫でられた赤いオープンカーは、昔と変わらない姿で輝いていた。


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