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小説『ウミスズメ』第二話:異常気象・吉祥寺・青いマンション

【前話までのおはなし】
僕の名前は「海宝悟」。それは本当でもないし、嘘でもない。
僕には戸籍がないからだ。
夏のある暑い朝、僕はバイトに出かけることにした。

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 スマホのアラームを止めた時、部屋の中はすでに蒸し暑かった。

 まだ六月だというのに、ここ数日異常なほどの暑さが続いている。夜は既に熱帯夜レベルらしく、暑さで夜中に何度も目を覚ましたせいか寝不足気味で頭痛がした。

 枕元に昨夜の飲みかけの缶ビールがあるのを見つけて口に含んでみたが、金属の味のするただの生ぬるい液体になっていた。テレビをつけたところで〈真夏の日射し〉だの〈最高気温を更新〉だのと聞かされるだけなので、流し台で歯を磨き、水を一杯飲んで出掛けることにした。

 今回取材するカフェがある吉祥寺は、僕の住んでいる京王線の代田橋から電車で三十分位のところにある。住みたい街ランキングの常連なだけあって、駅前は平日でもかなりの人出がある。天気の良い休日ともなれば推して知るべしだが、幸い今日は月曜日だ。

 吉祥寺の駅を出たところでスマホを取り出し、メールにあった住所を地図で検索。目的地のカフェは、駅前から真っすぐに続くサンロード商店街から少しはずれた場所にあるようだった。

 歩き始めて気付いたのだが、ちょうど朝の通勤時間帯にあたってしまったらしい。皆が駅の方に向かって歩いているので、それに逆らって進むのはなかなか面倒だった。反対方向からの人波をすり抜けながら少し歩き、すし詰めのバスが吐き出す排気ガスを避けつつ横断歩道を渡った。

 ユニクロを通り過ぎ、銀行を曲がって小さな通りの入り口にたどり着くと、そこでやっと人影がまばらになり、僕は立ち止まって一息ついた。

 そう言えば、この辺りには数年前に来たことがある。
 独特な品揃えが評判の古本屋に、絶版になった本を探しに来たのだ。子供の頃に母の書棚に並んでいたカルロス・カスタネダのシリーズ本が、その書店には全巻揃っていて嬉しかったのを思い出した。僕はそのシリーズのカバー・イラストが大好きだった。

 小さな商店が軒を連ねる数十メートルほどのこの通りは、その頃はまだ地元住民の生活道路といった風情だった。豆腐屋やクリーニング店が立ち並び、歩道の端には大小様々な植木鉢がごろごろと置かれているような、ありふれた住宅地の、ごくありふれた商店街だった記憶がある。しかし最近では吉祥寺というブランドが周辺一帯の人気を押し上げたせいだろうか、ここにも新しい店が増えたようだった。

 まだ早朝なので人通りは少なく、僕の他にはアロハシャツを着た髭の中年男性がぶらついているだけだった。胸と腹のあたりに赤い大きな鸚鵡おうむが描かれた、水色のアロハだ。まだどの店も開店前のこんな時間に、その男は〈CLOSED〉の札の下がったショップのウィンドウを覗きこんだり、電信柱の広告を眺めたりしながら僕の後方をゆっくりと歩いていた。酔っ払いかも知れない。きっと馴染みの店で朝まで呑んでいたのだろう。

現在いまと昭和の佇まいが融合するする街並みが、吉祥寺の大きな魅力のひとつだ」

 街歩き雑誌などでよく見かけるキャッチ・コピーが思い浮かぶ。だいぶ使い古された感のある表現だが、雑誌の見出しなんて得てしてそんなものだ。ましてや業界誌の記事は文学作品とは違う。分かり易いのが一番なのだ。それに実際、この場所はまさにその文章にピッタリだった。

 道の左側にはピンチョスとワインが売りらしいスペイン・バル風の居酒屋、斜向かいには薄汚れた日除けのビニールが破れて垂れ下がっている地付の青果店、その隣のカワイイ系雑貨屋のショーウィンドウの奥では、カエルの縫いぐるみが何処か遠くを見つめて幸せそうに笑っていた。地元のシニア向け洋品店の錆だらけのシャッターの横では、最近流行り出したアメリカ発のドーナツ屋が、パステル調の立て看板で隣の店からの歳月の侵入を必死に食い止めようとしているようだった。

 見渡す限りで開店準備をしているのは青果店だけだった。

 ランニング姿の店主らしきオヤジが、黄色やオレンジ色のコンテナ・ボックスをひっくり返して台を作り、新鮮なネクタリンを載せた緑色のザルを不機嫌そうに並べているところだった。如何にも女子が行列しそうなプチプラ雑貨屋の隣になってしまったのが不本意のようにも見えたが、それはこっちの勝手な想像に過ぎない。

 強さを増してきた日差しが商店の前に濃い影を作り始めた通りを、スマホのナビに従って歩くこと約五分。すでに大量の自転車で埋まっている駐輪場を通り過ぎると、前方にてらてらと光を反射する建物があるのが目に留まった。歩くにつれて見る角度が変わると、壁面がまるで魚の鱗のように煌めいて見えた。

 近づいてみるとそれは、七宝焼き風の青いタイルで全体がびっしりと覆われたマンションだった。光って見えたのはタイル表面のガラス質が朝日を反射していたからだ。

 随分と昔風の建物だな、というのが第一印象だった。

 僕は〈建築萌え男子〉とかでは決して無いが、建築物を見るのが割と好きだ。特に高度経済成長期に建てられたようなビルが好きで、見つけるとつい足を止めて眺めてしまう習性がある。何故、高度経済成長期様式――そんな様式があるのかどうかは知らないが、一九七〇年代から一九八〇年代頃の建物を僕は勝手にそう呼んでいる――が気になるのか、自分でもよく分からない。それは何か逆説的な、一種の哀愁に近いものなのかも知れない。僕がまだ存在しなかった時の世界の匂いを感じるような気がするのだ。そしてそれは僕が存在しなくなった後の世界へと通じている。

 僕はその建物を正面から見上げる場所に立ち、全体をゆっくりと眺めた。

 それは上層階が居住エリアで一番下の階が半地下になっている、五階建の建物だった。道路から半地下へと続く階段の先には、数件のテナントが並んでいるのが見えた。どの店もまだ開店前か、或いはもう閉店してしまったか、そのどちらかのように見えた。

 マンション部分はあちこち汚れているが誰も本気でメンテナンスをする気はないのだろう、ベランダの手摺は錆だらけで、タイルの目地もあちこちひび割れていた。エントランスの館名板も同様で、建物と同じ青色に塗られたの鉄板の上に、剥げかけて端が反り返った金文字が辛うじて張り付いていた。

【ブルー・マンション】

 それがこのビルの名前だった。壁面を覆うタイルの色から命名されたのは疑う余地が無い。センスの欠片も感じられない名前ではあるが、そこがまた時代を感じさせた。現在地を確認しようと住所表示を見ると、どうやらこの、およそ魅力的とは言えない建物が本日の目的地であるらしかった。

 この仕事に対するモチベーションが急激に下がったことは否定できなかったが、だからと言って今更断ることも出来ない。玄関ロビーにぶら下がっている茶色く煤けたシャンデリア風の安っぽい照明を見上げ、溜息に近い深呼吸をしてから、あきらめて仕事に取り掛かることにした。

 取材先はカフェなので、差し当たって住居部分は関係がない。そこでテナント・エリアに並んでいる店舗を見て回った。

 花屋、居酒屋、ラーメン屋、パブ……。その中に何の店なのか分からないものが一つあった。扉は木製で中が見えず、場末のバーかスナックのような雰囲気が漂っていた。近づいてみると、扉の正面に魚の形をした金属製のプレートが打ち付けられていて、その中に小さくフリーライター氏のメールにあったカフェの名前が刻んであった。

 「ここか……」

 怪しげな店で無いことを祈りつつ、僕は〈PULL〉と書かれたプラスチック製プレートの下にあるドアノブを引いた。

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「僕の名前は海宝悟です」と僕は言うことにしている。だがそれは、嘘でもないが、本当でもない。

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次話【第三話:青いカフェ・魚・カラバッジョ】
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