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小説『ウミスズメ』第一話:さやいんげん・名前・アルバイト

それは、名前の無い青年と少女の出会いから始まった。
存在と不在、日常と違和感の狭間で
それぞれ行き場を見失った二人の
奇妙な四日間の物語。

「自分は何者なのか」「存在しているとはどういう事なのか」
誰でも一度は考えることを青春ストーリーのタッチでお送りしております。
イラストも描いていますので、挿絵も楽しんでもらえたら嬉しいです。

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その時、僕に見えたものは、テーブルに広げられた新聞紙と、その上に勢いよくぶち撒けられたさやいんげんだった。
 彼女は真新しい朝刊を読みながら、採れたてのさやいんげんをひとつずつつまんでは、慣れた手付きで筋を取っていた。

 一面に大見出しで報じられたチリ鉱山事故の記事からふと目を上げた彼女は、まるで芝居の書割が転換したのを見届ける演出家のように周囲を見回してから、次の瞬間には全てを決めて立ち上がった。

 長い髪を束ねていたゴムを取って頭を一振りした彼女は一度だけ後ろを振り返り、つい今しがたまで飲んでいたコーヒーの入ったマグカップを見て小さく微笑んだ。

 そして彼女は、何もかもをその場に残して行ってしまったのだ。さやいんげんも、コーヒーの湯気も、そして僕も。

   * * * * *

 僕の名前は海宝悟。

 しかし、僕が海宝悟であると規定できるものは恐らくこの世に存在しない。それはつまり、あまり多くはない知り合いの何人かが僕をその名前で認識する、それ以上でもそれ以下でもないということだ。

 実際、他にも幾つかの違う名前で僕を知っている人々がいるが、厳密な意味では、そのどれひとつとして僕の名前ではない。さりとて偽名かというと、そうとも言い切れない。何故なら僕には法的に有効な、いわゆる〈姓名〉が無いからだ。

 簡単に言うと〈戸籍が無い〉のである。

 どこかの猫のように「名前はまだ無い」と言い切ってしまえば、それはそれですっきりするのかも知れないが、現実はそうもいかない。何処へ行っても大抵の場合、開口一番こう聞かれる。

「どちら様ですか?」

 そこで、僕はこう答える。

「僕は海宝悟です」

 それは嘘でもないが、本当でもない。〈真〉がそもそも存在していないのだから〈偽〉だと言える根拠も無い。ここが憲法も法律も無い国であれば〈隣の兄ちゃん〉みたいなことで済むのかも知れないが、ここ日本国に於いては事情は異なる。

 それでも母が失踪してから五年が経った今、僕は何とか存在し続けている。そう、僕の母はある日突然、僕の前から居なくなった。だから今となっては、僕は母に聞くこともできないのだ。

 何故、僕には名前が無いのか。

 大方の日本国民には想像しにくいことかも知れないが、戸籍が無いからといって人間そのものが消滅する訳ではない。僕は二十四年間、名前無しで生きてきた。

 勿論、不便なことは色々とある。氏素性がはっきりしないことには住居が安定しないし、そうなると定職にも就き難い。クレジットカードはおろか、銀行口座ひとつまともに作れない。だが幸い僕の場合、母が置いていった通帳にはそれなりの額が入っていた。

 そんな訳で僕の生活基盤は、一.母の貯金、二.身元がさほど重視されないアルバイト、三.競馬、この三つで成り立っている。競馬の収支はトントンといったところなので収入には入らないかも知れない。

 バイトは基本的に日雇いか短期のものに限られる。長期で入って下手に社会保険だなんだと言われると困るからだ。仕事の内容は様々で、家具の組立からソフトウェアのプログラミングまで、自分にできることなら特にこだわりなく何でもやっている。

 数あるバイトの中でも最近気に入っているのが〈結婚式の友人役〉だ。レンタル・スーツを着込んで結婚式場へ出掛けて行き、見も知らぬカップルを祝福してバレないうちに帰ってくるという仕事だ。

 実在の友人の名前で出席することもあれば、まったく架空の人物の時もあるが、その人間の人柄や話し方を具現化し、ほんの数時間だけ其処に存在する。それはちょっと面白い体験ではある。

 そもそも僕には名前が無いので、自分自身に対するこだわりが薄いのかも知れない。別人を演じることに対して特に抵抗が無い。そんな〈自然体の演技〉が評価されているのか、それとも単に存在感が薄いところが都合が良いのかは分からないが、僕が登録している一種のタレント派遣会社のようなものから時々声が掛かる。

 たまにはバイト先で別の仕事を見つけることもある。時々依頼が来る〈フリーライター助手〉も、そんな風にして始めた仕事のひとつだ。

 二年ほど前に友人役バイトで結婚式に出席し、僕は新郎の部下を演じていた。チャペルの階段に並んで、フラワー・シャワー用の花びらを手に主役達の登場を待っていた時、近くにいた中年の男が僕に声をかけてきた。彼は新婦側の出席者らしかった。

 最初は当たり障りのない天候の話などをしていたが、彼は僕の出身が千葉の成田だと聞くとひどく興味をそそられたようで、僕たちはしばらく成田の話をした。

 そのうちに彼が自分の仕事はフリーライターだと話すのを聞いて、どういう訳か反射的に「僕はライター志望なんです」などと言ってしまった。その流れで助手のバイトを持ち掛けられたのだ。

 タレント派遣の規約では、現場で出会った人物と親しくなるのは禁止――後々、本当の友人・知人でないことがバレたらまずいからだ――なのだが、そのフリーライター氏があまりに何度も連絡先を聞いてくるので、断りきれずにメールアドレスを教えてしまった。

 その時は単なる社交辞令だと思っていたのだが、後日本当にメールが来た時には少々驚いた。無視するとか、適当なことを言って断るという選択肢もあったのだが、僕は何となくその依頼を受けてしまった。それから時々、彼からバイトを頼まれるようになったのだ。

 仕事内容はさほど難しいものではない。要するに調査係のようなものだ。およそ記事と名の付くものは――フェイク・ニュースでもない限り――何も無いところから書くことはできない。つまり事実を元にした〈記事〉には〈取材〉が付き物なのだが、これが地味な割に結構な時間と労力が必要になる。普段はフリーライター氏が自分で下調べや現地取材をするのだが、仕事が立て込んでくれば当然、彼一人では手が足りなくなる。そんな時に僕が彼に代わってネットや図書館で調べたり、時には取材先へ出向いて聞き取りをし、その内容をメールで彼に送るのだ。最近は調査だけでなく、たまに文章を書かせてもらっている。勿論フリーライター氏が後で書き直すのだが、その下書きのようなものだ。

 どんな職業でも大抵そうだと思うが、フリーライターというのもピンキリで、誰もが知っているような有名な雑誌やウェブ・サイトに文章が載るような人々はほんの一握りなのだそうだ。

 ではそれ以外の物書き達はどうやって食っているのか? 例えば僕に仕事を回してくれる彼は、企業が社員向けに制作する社内報や、業界向けの専門誌などに記事を書いていると言っていた。そのせいか、僕が頼まれる仕事も内容がマニアック過ぎてよく分からないということが結構ある。

『月刊 可塑物加工の世界』なんていう雑誌だったりすると、何を聞いたら良いのかも分からないまま、ちょっと迷惑顔の工場長が早口で喋る専門用語だらけの説明を聞き書きし、意味不明のままフリーライター氏に送りつけてしまう、なんていうことも無い訳ではないのだ。

 月刊で雑誌が作れるほどネタがあるのが信じられないようなジャンルもあるから、業界誌というのは奥が深い。

 成り行きで始めた〈フリーライター助手〉の仕事だが、僕にとってその最大のメリットは、依頼も支払いも全てネット経由で処理してもらえることに尽きる。彼との接点は出来るだけ少ないに越したことはないからだ。

 そういう訳であの結婚式以来、僕は彼と直接会ったことは一度も無い。正直に言うと今ではもう彼の顔もよく覚えていないし、恐らく道で出会っても分からないと思う。彼だって僕の顔など忘れているだろうし、そこはお互い様ということだ。

 そのフリーライター氏から、先週久しぶりに仕事依頼のメールが来た。飲食業界の専門誌向けにカフェを何件か取材する予定なのだが、自分一人では忙しくて手が回らない。そのうちの一件を下調べしてくれないか、という話だった。朝早く起きるのは気が進まなかったが、どうせ暇なので受けることにした。

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■全17話+あとがきのリンク

小説『ウミスズメ』第一話:さやいんげん・名前・アルバイト

小説『ウミスズメ』第二話:異常気象・吉祥寺・青いマンション

小説『ウミスズメ』第三話:青いカフェ・魚・カラバッジョ

小説『ウミスズメ』第四話:少女・深海魚・スニーカー

小説『ウミスズメ』第五話:嘔吐・危機管理・不思議な絵

小説『ウミスズメ』第六話:抜け道・ジャングル・高速道路

小説『ウミスズメ』第七話:イカ釣り漁船・牛丼・先入れ先出し

小説『ウミスズメ』第八話:忘れ物・ウミスズメ・アクアロード事件

小説『ウミスズメ』第九話:ユト・コーヒー・魚の絵

小説『ウミスズメ』第十話:ハンバーガー・生存戦略・多様性の世界

小説『ウミスズメ』第十一話:テレビ・空港・秘密

小説『ウミスズメ』第十二話:飛行機・実存・魚のタトゥ

小説『ウミスズメ』第十三話:バンジージャンプ・図書室・アトリビュート

小説『ウミスズメ』第十四話:誰も見たことのない魚・権利とシステム・カレーかシチューか

小説『ウミスズメ』第十五話:オバチャン・図書室の本・ニーナ・シモン

小説『ウミスズメ』第十六話:アロハシャツ・海宝佐智夫・属性

小説『ウミスズメ』第十七話(最終話)・アフリカの鳥・名前のない魚・再定義

小説『ウミスズメ』:あとがき:薔薇の名前・モスキート・コースト・マタイの召命



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