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小説『ウミスズメ』第三話:青いカフェ・魚・カラバッジョ

【前話までのおはなし】
僕の名前は「海宝悟」。それは本当でもないし、嘘でもない。
夏のある暑い朝、僕はバイトで吉祥寺のカフェを訪れた。
時代がかった建物と怪しげな雰囲気に怯んだものの、いまさら仕事を断る訳にはいかない。僕は観念して店の扉を開いた。

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 最初はそれが一体何なのか、すぐには分からなかった。

 扉を開けると店内は全体的に薄暗く、ほの青い光に満ちていた。戸外から急に室内を見たせいで視覚がおかしくなったのかと思い、思わず目を瞬いてから改めて周囲を見直したが、変わらず薄暗くて青っぽかった。

 一歩店内に足を踏み入れたところで、僕の疑問は意外なほどあっさりと解決した。青い光の正体は壁いっぱいの水槽だったのだ。
 広さ十畳程度の小さな店内の壁面が全て、大小様々な水槽で埋め尽くされていて、その中には本物の魚が泳いでいた。一瞬、海の匂いを予期したのだが、海はおろか魚臭さすらなく、その代わりに飲食店特有の匂いがした。

 確かにフリーライター氏からの依頼メールには『アクアリウムがコンセプトのカフェ』と書いてあった。しかし、いざ目の前してみると、その店は想像と随分違っていた。よく考えてみると一体それがどんなものなのか、僕は何一つ具体的に想像していた訳では無かったが、目の前の光景は何かが違うような気がしたのだ。

 特にこれといったイメージがあった訳では無いのだから〈違う〉というのもおかしな話かも知れない。どんなものを想定し、何が〈違って〉いたのだろうかと頭の隅で考えながら、取り敢えずカウンターの奥へ向かって声を掛けてみた。

「はいはい、どちらさん?」

 そう言いながら、ひょろっとした中年の男が奥から出てきた。

 そこで僕は、こう答えた。

「僕は、海宝悟といいます」

 口の周りに短い髭を生やした四十絡みの男は、朝っぱらから何だと言いたげに僕の文字通り頭の先から足の先まで眺めまわしてから
「あぁ、海宝さんね……」と言って、ぽりぽりと頭を掻いた。

 そこで雑誌の取材で来たのだと伝えると、彼は一転して愛想良く迎え入れてくれた。それはそうだ。そもそも店側がこの時間を指定したのだから、文句を言う筋合いではないだろう。

 髭の男はこの店のオーナーだった。歳は僕の母親より少し若いくらいだろうか。僕は中年の人物の年齢を想定する場合、自分の母親を基準にする癖がある。〈母と同じ位だな〉とか〈母より若干年上かな〉とか、そんな具合だ。

 別に珍しい手法ではない。家族や知人を基準として初対面の人物の年齢を推測するのは、誰でも日常的に行っていることだとは思う。但し、僕の場合にはひとつ致命的な問題があって、それは僕が、現在の母を知らないということだ。つまり参照元があやふやなので、何の推測にもならないと言われても仕方がない訳だ。

 もしかしたら僕は中年の人物を見て年齢を推測することで、逆に母の現在の姿を想像するという、逆参照のようなことを密かに行っているのかも知れない。オーナーの愛想顔を見ながら、ふと、そんな考えが浮かんだ。

 彼がコーヒーを淹れてくれると言うので、その間にデジカメで店内を撮影する許可をもらった。全体的にひどく薄暗いのでカメラのフラッシュ設定をオンにした。

 入り口から見て右側には、オレンジ色のスツールが四つ並んだカウンターがある。

 その奥に見える小さな扉には〈PRIVATE〉のプレート。扉の向こうは事務所か倉庫だろう。

 向かって左側は壁に沿って四人掛けのテーブルが二つ。

 壁側の席は作りつけのソファ・タイプだ。壁一面に並ぶ大きな水槽を背負うようにして設置されたビニール張りのソファは、カウンターのスツールと揃いの安っぽいオレンジ色。

 店内はざっとこんなレイアウトだった。

 ビル同様に何とも言えず古臭い雰囲気のカフェだった。

 天井を這う剥き出しの配管は何度もペンキを上塗りしたのだろう、塗料が盛り上がって分厚く層をなしていた。スナック、ラーメン屋、居酒屋、喫茶店……テナントが変わる度に何度もリフォームされたに違いない。そうやって長い歳月を生き残って来た建物独特の匂いがした。

 僕は仕事に関して特に熱心なほうではないが、調べものが好きな性質なので、今回の依頼のために図書館で喫茶店について下調べをしていた。その時読んだ『喫茶店の変遷〜昭和・平成〜これから』というタイトルの本に〈ロック喫茶〉というページがあったのを思い出した。このマンションがまだ新しかった頃には、この場所もそんな店だったのかも知れない。

〈壁一面に並べられたレコード。紫煙立ち込める店内。彼らは会話を楽しみに来ているのではない。何故ならこの場所は、スピーカーから流れる大音量のハード・ロックを聴く為にあるからだ。客は一杯のコーヒーを前に、黙って身体を揺らしていた〉

 それの何が楽しかったのか僕には分からないが、何となくその場に居てみたかったような気がした。本の図版にあった「七〇年代のロック喫茶」にたむろする若者――長い髪に絞り染めのTシャツ、カーキ色のアーミー・ジャケットにベルボトム・ジーンズを履いた男――を、カウンターからコーヒーを持って出てきたオーナーと重ねてみたが、これはやめておくべきだったと後悔した。気の毒なほど似合わなかった。

「もっと大勢で来るのかと思ってた。ほら、照明とかレフ板とかそんなの、要らないの?」

 オーナーが僕のコーヒーをテーブルに置きながら言った。

「この写真は編集部へ見せる仮のものなんです。企画の内容が固まったら、改めて撮影班が来て文章に合わせた写真を撮らせてもらうことになります」

 そう答えてから、この店の撮影はプロでも難しいかも知れないな、と思った。とにかく壁という壁が水槽で埋め尽くされていたからだ。どこにレンズを向けても、必ず何かが――大抵の場合は自分自身が――映り込んでしまう。フラッシュを焚けばガラスに光が反射して肝心の魚が映らない。旧型のデジカメひとつでできることには自ずと限りがあるので、水槽の魚は諦めて店内を大雑把に撮っていくことにした。

 圧倒的存在感の水槽をはじめとして、インテリアは全て魚で統一されているようだった。

 テーブルの天板には、貝やヒトデが描かれた色鮮やかな絵タイルが埋め込まれ、カウンターの上には魚の置物やフィギュアがごちゃごちゃと並んでいた。

 水槽が途切れている場所は柱だけだが、そこにも様々なテイストの魚の絵が飾られていた。ポップアート風、抽象絵画風、エスニック風など、とにかく魚介類がモチーフならなんでも良いというセレクトらしかった。僕はあまり芸術に対する造詣は深くないが、どこかで見たことがあるような絵もあった。恐らく有名な画家の絵をアートポスターにしたものなのだろう。

 その中でも、地味な色合いの日本画風の絵に目が止まった。砂色の背景に魚や蛸や貝が図鑑のように妙に整然と並んでいる。日本画のようでもあり、デザイン化されたポップアートのようでもある、なかなか洒落た絵だ。

「綺麗でしょう。これは、伊藤若冲の有名な絵だよ」

 絵を見ていた僕の後ろから、不意に女の声が聞こえた。びっくりして振り返ると、いつのまにそこにいたのか、紺のセーラー服を着た女の子が立っていた。僕が状況を把握できずにいると、カウンターの向こうにいたカフェのオーナーがこちらに近づいて来た。

「これはウチの娘のユト。この店に飾ってあるアートは全部この子が選んだんだよね。この子が自分で描いた絵もあるんだよ。ほら、あそこのやつとか」と言いながら、柱に掛かっているミロの抽象画のような絵を指差した。

「この子は中学で美術部なんでね」オーナーがポンと少女の頭に手を置くと、彼女はちょっと顔をしかめてその手を振り払った。

〈やめてよ、子供じゃないんだから〉ということか。

 なるほど、そう言われてみればコスプレのウェイトレスにしては年齢が若過ぎるし、コスチュームが地味過ぎる。僕が不躾に見過ぎたのか、それともただの反抗期なのか、少女はそのまま何も言わずにプイと店の隅の方へ行ってしまった。

「ま、どうぞどうぞ座ってコーヒーでも飲んでよ。ウチのはまあまあ美味い筈だから」

 やたらと同じ言葉を二度繰り返す癖のあるオーナーにそう勧められたので、ひとまずコーヒーを味わってみることにした。これも取材の一環だ。

 コーヒーは、白地に青い釉薬で子供の落書きのような魚の絵が描かれたコーヒーカップに入っていた。それはおそらく、味自体は悪くなかったのだと思う。だが、そこで改めて気付いたのは〈魚に囲まれて飲むコーヒーはあまり美味くない〉ということだった。

 実際に魚臭くはないのに、大量の魚に囲まれた自分の脳が勝手に魚の匂いを期待してしまうのかも知れない。刺身を食いながらコーヒーを飲んでいるような気分だった。加えて水槽が青い。聞いた話では一般に青は食欲を減退させる色らしいから、飲食店で使うには難しい色だ。まあ、ソーダのように青いことで美味そうに見えるものもあるから一概に駄目とも言えないのだろうが。

 暑いこの季節、どうせならソーダの方が良かったなと考えた後、道を歩いていた時に噴き出していた汗がすっかり引いていることに気が付いた。ここは不思議なほど、静かで冷んやりとしていた。

 開店前で照明を落としているせいか店内は全体的に暗い。その中で、店の一番奥に一筋の外光が差し込んでいる場所があった。そこは天井近くに横長の排煙窓があり、ほんの少し開いた窓の隙間から顔を覗かせている雑草の緑色が、この店が半地下に位置しているのを思い出させた。

 その窓から真下のテーブル席へと延びる陽の光の中に座っていたのは、先程の少女だった。

 僕はふと、いつか見たカラバッジョの絵と、母の言葉を思い出した。

〈この絵はね、マタイがイエスについて行くために椅子から立ち上がる、その直前の情景を描いたって言われてるのよ〉

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