三人目の天使
梨木香歩 「エンジェル エンジェル エンジェル」
これは熱帯魚をめぐるかすかな・聖なる・狂気のおなはし。
この本は梨木さんの小説の中でも比較的有名な一編。昔読んだのをうっすらと思い出して、久しぶりに読み返した。再読すると新しい発見はあるものである。
タイトルの通り、物語では天使や聖書にまつわる場面がたくさん登場する。小さい頃は天使のようだと言われていたコウコ、その祖母が子供のころにツネから貰った木彫りの天使、二人が学んできた教会という場。そして中心となるのは当然、主人公のコウコが飼い始めるエンゼルフィッシュである。いま気が付いたが、タイトルは「エンジェル」なのに文中では「エンゼル」フィッシュなのはどうしてだろう。
物語は主人公コウコの視点で描かれる章と、その祖母=さわちゃんの少女時代の視点(と思われる)章が交互に描かれる。この平行世界的な物語構成は同著「沼地のある森を抜けて」でも見られる梨木さんらしい独特の構成。
物語のあらすじはこうである。
コウコは心の拠り所として、エンゼルフィッシュ二匹とネオンテトラ十匹を飼い始めた。しかしそれと時を同じくして寝たきりだった祖母はコウコと熱帯魚の前でだけ、少女のような振る舞いで「さわちゃん」として覚醒するようになる。もといコウコにとって神聖な存在だった熱帯魚たちだが、間もなくエンゼルフィッシュはネオンテトラを襲い、互いを襲い、終にはコウコの過失で最後の一匹は死ぬことになる。
コウコとさわちゃんはともに聖書に通じた女性。エンゼルフィッシュは本当は悪魔で、水槽を支配するコウコは水槽の世界の神様で。。。エンゼルとは何か、神様とはどういう存在なのか、聖書の世界やさわちゃんの過去が交錯しながら、熱帯魚とさわちゃんは切なくも最期を迎える。
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まず、タイトルに居る三人のエンジェルは誰なのだろう。一人は、二匹のエンゼルフィッシュ。二人目は、ツネがさわちゃんにプレゼントした木彫りの天使像。三人目は、おそらく「さわちゃん」としての祖母だったと思う。
三人の天使は皆、ほろ苦い記憶を纏っている。エンゼルフィッシュは、悪魔に豹変し水槽世界の住人を殺戮した。ツネの彫った天使は、少女時代らしい些細ないじわると別れの切なさの記憶でもあった。コウコの前で姿を現す「さわちゃん」はやや複雑な昏いコウコの家庭状態と表裏一体の存在であった。
このエンジェルたちの纏う負の背景が、この物語を通じて心に訴えかけてくるものなのだろう。
そもそも、この物語で主題になる「天使」とはギリシア語の「αγγελος」に由来する「伝令」の意味であり、いわば「天界の使者」である。つまりこの世のものではないし、現代的に言えばこの世とあの世の橋渡しである。
私たちは天使を「聖」なるもの、「正」なるもの、「生」なるものとして思いがちだ。しかし、下界にいる私たちの視点から見れば「あの世」側からの使者が天使である。それは紛れもなく「この世」や「生」とは相反する存在だ。
そう思えば、エンゼルフィッシュもさわちゃんも(コウコも)、悪魔ではなく紛れもない天使だった。皆が隔たった二つの世界(エンゼルフィッシュ=生と死、木彫りの天使=さわちゃんの家と遠く離れたツネの実家、おばあちゃん=「寝たきりの祖母」と少女としての「さわちゃん」)の境界を行き来して、最後にはみな「あちら」側の世界に行ってしまう存在だ。
しかしこれはいいかえれば回帰の物語である。もとい天使が天界の住人であるように、熱帯魚も食物連鎖という自然の摂理へ、ツネも本来の故郷へ、そしてさわちゃんも本来の人として死へ帰ったのである。
そうして見れば、この物語そのものも「さわちゃんの少女時代」=「過去」と「コウコの視点で描かれるおばあちゃんとの物語」=「現在」を行き来する、まさに天使のような働きをした構成になっているのかなと感じる。
そんな、限りなく現世の感覚で捉えられた、果てしなく聖なる物語だったと思う。
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「教会」と「境界」は、同じ音をしている。
これはおそらく単なる偶然である。
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