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贅【2022/10/26】

贅沢な食事というものは、時々したほうがよい。心の惹かれるままに、躊躇なくおこなうのはさらによい。
よいお店にはよいマスターがいる。近年はコロナの影響で食材の無駄を省くということもあり、完全予約制を取る店も多い。そうすると、客の数よりも、ひとりひとりのお客さんを丁寧にもてなそうというお店が増えてくる。
苦手な食べ物はないか。たくさん食べる人なのか、或いは少なめでいろいろな種類をだしたほうが喜ばれるのか。そういったことを考えながらコースを提供してくれるマスターは非常によいマスターだ。
またそういうことを考えるお店なら、当然料理人としての腕とこだわりがある店がほとんどで、地元の素材ないしはマスターが自信をもって薦める食材を使っていて、どんな場所で、どんな風に手に入れるのかを説明をしてくれる。
これは単なる食に対する蘊蓄ではなく、マスターの食に対する思想であって、マスターがどのような思いで料理を創っているのかがつよく伝わってくるコミュニケーションになる。
なので、外食で贅沢な食事をするというのは、ただ高級な食べ物を食べるだけではなくて、料理を取り巻く世界と人間と心配りを、手に取るようにつぶさに知ることのできるエンターテイメントであって、崇高なものだと思う。
なのでこういう食事に数万を使ったところで、あまり高いとは思わない(……いや、高いことは高い)し、赤字にならない程度になら、やっていくほうが心が豊かになる。

しかし最近の悩みとして、こういった食事への多元的な感動をうまくマスターに伝えられていないのではないかということがある。
話せるタイプのマスターには必ず美味しければ美味しいというし、楽しかったとか、いい時間だったということを言うようにしているが、なかなかそれ以上の叙述をすると過剰で面倒な客に思われるのではと恐れて言いさしてしまう。
日々、いろいろいなお店へのあふれでる感謝の気持ちを伝えたいのに伝える術がない。唯一できるのは、何度も通ってお金を落とすことくらいだ……。

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