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さかさまの虹|物語

銀の虹の精・シャルカさんと、蒼い人魚の青年の物語。風の妖精たちも登場します。童話のような、私にしてはかわいらしいおはなしだと思っています。約10,000字、文庫本換算で15ページくらい…と、少し長いので、導入文を載せておきます。

note のAIさんによる、SNS投稿用まとめ
⇒「青い虹と魅力的な人魚の物語。湖に魅了されたシャルカの冒険が始まる。彼女の夢は果たされるのか?  憧れが交錯する美しい世界を描きます。『さかさまの虹』 #note





 明けほのめく空の、その青を吸い込んだひそやかな虹のふもとに、果てのない湖と小さな島がありました。
 シャルカは今日も波うちぎわ、抱えた膝に頬をあずけて波にまなざしをあてています。
 水底から浅瀬へと、軽いざわめきを立て、ひとりの人魚が碧の光を散らしました。
 しなやかな尾をひと振りし、水面まで浮かび上がってきます。
 なんてきれいなのかしら。シャルカは魅入られたまま、さらに水際へと銀のつま先を寄せました。
 あんなふうに、波をすべれたら。
 あんなふうにしなやかに、水をくぐっていけたら。
 波にたわむれる人魚たちは、陸の上のことなど気づきもしないように、小さな波頭を追いかけて泳いでいきます。
 シャルカは深い、深いため息をつきました。
 風の妖精たちがふうわりと集まって、首すじをくすぐります。
「そんなところで水のものばかり見ていないで、こちらにおいでよ」
 いたずらっぽく、ひとりの妖精が言いました。
「あなたは虹の精でしょう? どんなに水に焦がれても、その体じゃすぐに溶けてしまう」
「溶けてもいい。私は湖に入ってみたいの…どうして人魚に生まれなかったのかしら」
 指先を水の中に差し入れると、ひいやりとしたさざ波が細い指先をつかまえます。
「あぶない、引き込まれてしまう」
 妖精たちが、めずらしく真顔になって、シャルカをそっと引き戻します。
「ほら見て、その指先」
 水の流れにかき乱され、銀の粉のようにちりぢりになってしまった指先を見つめ、シャルカはもうひとつため息をつきました。
「また、何日かしないと元に戻らない」
「シャルカさんはいつも指先をなくしてる」
「指なしのシャルカさんだ」
「虹のシャルカさんは、人魚に恋わずらいをしてしまいましたとさ!」
 唇を噛んだシャルカが強い目でそちらを見ると、いたずらな風たちはさやさやと笑い声に揺れながら、ふうわりゆらりと離れていきました。

 それはたぶん、ただのたわむれだったのかもしれません。
 水際に寝そべり、頬杖をついて、顔が水にほとんどふれるばかりにのぞき込んでいるシャルカに、そのひとは、形のよい指の間に青い水の炎を浮かべて見せてくれました。ひそやかな湖の蒼の中、それは深い深い闇の水底に沈んだ月のように、青ざめた色をしていました。
「みんなそうやって炎を作ることができるの?」
「人魚ですから」
 青年は涼しげにほほえんで、うなずきました。夜のように蒼い、長い髪から、しずくが飛び散ります。シャルカはあわててそれをよけようとしながらも、青年の青ざめた指先を食い入るように見つめていました。
「あなたも湖の中に入って水に溶けた風の粒を知れば、炎は作り出せますよ」
 その言葉を残して、青年は力強い尾を振り、小波ひとつ作らずに姿を消していきます。
「待って…!」
 身を乗り出したシャルカの顔に、はぐれた水しぶきがひとつ飛び散りました。
 水のにおいがした…そう思った時にはもう。
 いたずらな風の妖精たちは、立ち上がった彼女の顔を見てくすくす笑いをもらします。
「鼻なしのシャルカさんだ」
 けれど、今にも湖に飛び込んでいきそうな彼女を見て、風たちは申し訳なさそうに静まりました。


 シャルカは、銀の虹を受け持っていました。七つの色の虹がかかる空では、ふつうは現れることのない虹です。
 また、七色の虹が一日をそれぞれの色に淡く染め分ける役割を果たしているのとは違って、銀の虹にはなんの役目もありません。
 シャルカは時間を持て余すと、ふとさびしくなるのでした。いつも誰かに見られているような、ざらざらした気持ちでした。
 けれど、この頃のシャルカの胸に灯っているのは、人魚の青年の澄んだ青い色でした。
 虹のもとになる銀の、透きとおる粒を集めたシャルカの体は、あくまでやさしい、けむるような銀色をしています。不思議にも、湖の水面でくだけるひそやかな波の色そのままに。
 だから風の妖精たちは、なぜシャルカがそんなふうに湖の人魚に想いをよせているのか、本当はわかっているのかもしれません。
「《さかさまの虹》を渡ると、どんな願いでも叶うと言うよ」
 ふと、そんなことをささやく風がありました。
「《さかさまの虹》を?」
 虹が沈むと、湖の中で《さかさまの虹》になることを、もちろんシャルカはよく知っていました。けれど、願いを叶える力があると知ったのはこのときが初めてだったのです。


 その翌日、シャルカは人魚の青年のことを想いながら、ぼんやりと岸を歩いていました。
 気づけば、足もとの真砂まさごの間に、真珠色の光が見え隠れしています。それは、小さな二枚貝のかたわれでした。
「忘れものかしら…」
 指先でつまむと、内側は青年の髪の色を思わせる、ごく沈んだ光を浮かべる蒼でした。
「もしかして、これはあなたのものなのかしらね」
 こっそりとつぶやくと、また湖の彼方に視線をさまよわせ、歩きはじめます。波のようにうねる、定まらない足あとの小径を、どこまでも後ろに残しながら。

 そうして、いつの間にかシャルカは、知らない景色の中にいることに気づきました。ずいぶん遠くまで歩いてきたようです。
 ひとやすみの時間です。考えごとをするのにちょうどいい岩を見つけて、腰かけました。まるで誰かに座ってほしがっているような形をした岩でした。
 すぐそばは湖。時おり風が水面を細い指でなぜていきます。
 シャルカが手を開いて、貝殻の深い蒼を見つめていると。

 不意にぽかりと浮かび上がってきたのは、当の想い人の青年でした。
 いつも目に心地よい、流れるような身ごなしの青年は、けれどめずらしくそこに浮かんだまま、まるで彫像のように手元に視線を落としていました。
 シャルカと目が合うと、青年は口を開きました。
「いま、これが上のほうからゆらゆらとおりてきました」
 不思議にも、それはつややかな真珠色の貝殻です。シャルカは思わず、また握りしめていた手を開きました。
「そっくりなのね」
「おや、そのようですね」
 青年が見つけた貝殻は、内側に返すと、虹のような銀色をしていました。
「あなたの色ですね」
「そして、わたしのはあなたの髪にそっくり」
 ふたりは顔を見合わせてほほえみました。
「まるで双子のようです」
 シャルカもそう思っていました。外側の真珠色の模様もとても似ているのです。
「もしかすると、ぴったり合うのかしら」
「試してみましょう」
 青年は、小波をこわしさえせずにシャルカの隣にすべってくると、手のひらを広げました。シャルカは、指先で貝殻をつまみ、そうっとその上に置きました。

 気をつけてはいたのです。でも、シャルカの細い指先が青年の手のひらをかすめてしまいました。
 とたん、銀の真砂のように、シャルカの指先はくずれて、ぱあっと散ってしまいます。青年は驚き、慌てました。
「きみは…」
 シャルカは申し訳なさそうに、謝ります。
「銀の虹は、水が苦手なの。あなたのせいではなくて、手のひらのしずくのためよ。気にしないでくれるといいのだけれど」
 心配そうに青年を見守りながら、シャルカは付け足しました。
「きっとあさってには元に戻っていると思うわ、だから」
「痛かった?」
「いいえ、ちっとも。くすぐったい気分だった」
 本当は、それはシャルカにとってはじめての感覚でした。ふだん、水に触れると、何かがこっそりと体から抜け出していくような、奇妙な感じがしていたというのに、です。
「悪いことをしましたね。今度から触れないように気をつけることにしよう」
 シャルカはうなずきたいのか、首をふりたいのか、よくわからない気持ちのまま、返事をしませんでした。

「それより、その貝殻を合わせてみて…あら、ぴったりなのね」
「不思議なこともありますね」
 感心して、青年は合わせた貝殻をひっくり返しては眺めています。
「見てみますか?」
 彼は、手のひらや指先にしずくが集まらないように気をつけながら、シャルカの目の前にそれを差し出してくれました。シャルカは慎重に顔を近づけます。これ以上どこかに穴をあけて青年をひるませたくはなかったのです。
「ほんとう…ぴったり同じなのね」
「よくわかったところで、きみにこれを返すとしよう」
 蒼いかたわれを、青年がやわらかな砂浜に置いてくれたので、シャルカは残った指でおそるおそるつまみ上げ、湿り気を含んだ砂を払い落としました。
 今度は、何事もなくすみました。ふたりはためらいがちに顔を見合わせ、それから大きくほほえみました。

「どこかにちょうどいいひもはないかな。これを身につけておくことにするから」
 シャルカはうれしさのあまり頬をそめました。ひときわ明るく、シャルカの銀がさざめきたちます。
「わたしもこれを首飾りにするわ。なくしたりしないように。もしよかったら、明日またここにいらしてくださらない? きれいなひもを見つけてくるから」
「わかりました。では明日の…」
「朝の虹が沈むころに、ここで」
「つまり青い虹の時刻に、ということですね」
 それが、ふたりが初めてかわした約束でした。



 次の日の朝、青い虹が沈むころ。
 シャルカは先に約束の《もの思いの岩》に着いて、青年を待っているつもりだったのですが、同じことを考えていたのか、青年のほうが一足早くそこについていました。
 青年は、湖に沈んでいく青い虹を静かに見つめていました。
「この虹が湖に沈むと、あなたの髪の蒼にそっくりになるの」
 シャルカはそっとささやきました。青年が振り向きます。
「きみはいつも私たちのすみかを眺めているけれど、そんなふうに溶けてしまうのなら水は嫌いではないの?」
 悲しげに、シャルカは答えます。
「大好きなの……湖に入ってみたいと思うわ」
 青年は考え込みました。
「虹の精のきみなら、たとえ湖の中でも、《さかさまの虹》の中に入れば大丈夫かもしれない」
「なんでも願いが叶うと妖精たちに聞いたわ」
「渡り終えたらこう願いなさい。水に触れてもいい体になりますよう」
「人魚になれますよう」
「それはいけませんね。虹の精は虹の精のままでいなければ」
「そうかしら」
 シャルカは唇をとがらせます。
「ともかく、《さかさまの虹》を渡ることからはじめましょ」
「では、《さかさまの虹》が水面のところでとぎれていないかどうか、明日の朝までに調べてみます。また明日、青い虹が沈むころにここに来てくれますか」
「もちろんよ」
 シャルカは喜んでうなずきます。そして、綿毛を集めて撚り上げた銀色のひもを青年に渡しました。
「銀の虹の粒がまざってしまったから、水に触れると溶けてしまうかもしれないわ。でも、ひも自体は大丈夫よ」



 翌日の朝。またもやシャルカは青年に先を越されてしまいました。
 もう五本そろった指を広げて、挨拶をします。
「だめだ…水面のところで水と混ざり合っているから、虹に行き着く前に水に触れてしまいます。青も緑も赤も、ひとつずつ調べてみましたが、どれも同じでした。七色とも」
 昨日、シャルカと話をした後、青年は一日中《さかさまの虹》が沈んでいくのを観察していたのでした。

 朝になるとまず青い虹が空をほの明るく染めはじめます。それから鮮やかな緑の虹が現れ、午後を迎えて黄色の虹へとうつろいます。橙色が赤を迎え、空ににじむ夕焼け雲の端を燃え立たせて燠火のように薄れると、紫の虹がひそやかに光を放つ夜へと向かうのです。真夜中を過ぎると、紫から少し紅を抜いた藍色の虹が、ゆっくりと、なにかあたり一面を鎮めるように世界中の色を眠らせ、また明るい朝を迎えるために空をととのえるのでした。一日はそうして、次々と沈んでいく虹によって染め分けられているのでした。

「紫や藍色の虹も?」
「はい。でも、少し覗くだけですから、寝不足になったわけではありませんよ」
「それならよかったわ」
「銀の虹は、沈むことはないのですよね?」
「ええ、空を横切るだけ」
 銀の虹は、シャルカが空を駆け抜けて描くものでした。とはいっても、小さな島のことですから、それほど遠くもないのです。
「もし沈む虹なのなら、わたしも溶けたりしない体だったはずよ…」
 銀の虹は、いったい何のために空を彩るのでしょうか。海の生きものたちも人魚もみな、銀の虹を見ると声を上げ、めずらしがって空を仰ぐけれど、ほめる言葉がないだけなのかもしれません。
 銀の虹なんて、あってもなくても同じなのかもしれない──。
 シャルカは《もの思いの岩》に腰かけ、さびしげな顔をして考え込みました。銀の輝きが薄れ、まるで霧のようにかすかになるのを見て、青年は思い切るように息をつきました。
「また、考えてみましょう。明日の朝までにいい考えが浮かぶかもしれません。私は《さかさまの虹》の様子をもう少し見守ってみます」
 ふたりは、明日の青い虹のころにまた会う約束をして別れました。


 シャルカがいつも過ごしているあたり──そこにはお気に入りの樹がありました──に戻ってくる間に、風の足でささやきをつまむ妖精たちのひとりは、もうその知らせを仲間のところに持って帰っていました。
 いつものようにシャルカと遊ぼうと待ちかまえていた妖精たちは、その計画を聞いて、複雑な気持ちになったようでした。
 大きな樹の枝にもつれるようにしてするりとほどく遊びをやめて、ひとところに集まり顔を寄せあいます。心もとなげに、ひとりが口を切りました。
「賛成。でもシャルカさんが溶けないなら」
「そうだよ、あぶないよ」
「シャルカさん、湖に入ったらどうなるの」
「指なしシャルカさんになる」
「足なしシャルカさんだよ」
「体なしシャルカさん」
「顔なしシャルカさんが頭なしになって、とうとう消えてしまいましたとさ!」
「やっぱり、だめだよ」
「でも…でも、そこでぼくらが手助けしたら、どうなの?」
「そうだ。シャルカさんを包んで湖にもぐろう」
「そうしよう」
 妖精たちは相談をまとめると、秘密を隠している妖精らしく、そわそわとうれしそうにシャルカを出迎えました。

 提案を聞いたシャルカは躍り上がって喜びたい気分です。
「ありがとう。なんてすてきなのかしら」
「でもシャルカさん、《さかさまの虹》を渡ってどうするのかな?」
「決まってるよ、湖にもぐる」
「そのままどこかへ行っちゃう?」
「人魚になるのかな?」
「いやだ。虹のシャルカさんは虹でなくちゃ」
「そうだよ、もう指なしシャルカさんなんて呼ばないから、人魚になんてならないで」
「人魚になるなら、ぼくら手伝わないから」
 こんなふうに言われてはしかたがありません。吹き出しながらシャルカは約束しました。
「わかったわ。虹のままでいるから」



 こうして、シャルカが《さかさまの虹》を渡る日がやってきました。
 どの色の虹でもよかったのですが、シャルカはいつもの青い虹を選びました。朝、青い虹が沈むのを待って、湖にもぐるのです。
 人魚の青年は、朝方、青の虹が昇ってほどなく、虹のふもとで待っていました。シャルカは落ち着かないまま、風の妖精たちをつれてそこにたどり着きました。
 いつも見ているはずの虹のふもとは、今日はまるで知らない場所のようによそよそしく感じられました。
 風の妖精たちも、さわさわと落ちつかなげに揺れながら、シャルカの回りを囲んでいます。
「手を引いてあげられないのが申し訳ないのですが」
 青年の合図で、風たちはシャルカをおしつつみました。
 くすぐったいような、ゆるやかな空気がシャルカを幾重にも取り巻きます。密なのに、どこまでも深く息をすいこめそうな澄んだやわらかさの中、シャルカはしっかりと目を閉じました。
「シャルカさん、いくよ」
 その声に、目を開くと…。


 これが、水の中……シャルカは息を詰めて、その不思議な世界を全身で受け止めました。
 魚たちのひらめく静かな音が、水にやさしく伝わって、なだめるような子守歌を体の奥に響かせます。
 金や碧をかくした魚たちが、シャルカの目の前をかすめていきます。
 色とりどりの海の生き物たちの姿は、まるで空の虹を一時に集めたように、鮮やかでした。
 なかでも、ひときわあでやかに、色の帯をなしながら、水の流れにたわむれている人魚たち。うろこに光るやわらかな色合いは、言いようのないほどの美しさでした。
 みな思い思いに、うろこと同じ色の長い髪を、水のそよ風にたゆたわせています。
 橙も、緑も、藍も、同時にみんなそこに……湖は、虹と同じ七つの色をその内にひそめていたのです。
 シャルカは目を見開いて、めずらしい景色を見つめます。

 少し下りただけで、明るい青は急速に光を失い、紺碧から蒼へと深まっていくのだということを、はじめてシャルカは知りました。
 傍らをすべる青年の髪も、もう水の色とほとんど区別がつかないほどになりました。

 やがて、あたりはほとんど漆黒近くまで沈み込みました。すぐ下の所に、青い虹が水のゆらめきに姿を半ば乱されながら、あやうい確かさで光を下へとのばしています。深みへと手招くその光の帯だけが目印でした。
 それを目指して舞い降りるシャルカの体から広がる淡い銀の輝き。
 先を進んでいた青年は、ふと振り返ると、魅入られたように動きを止め、その銀の光の彩なす織り模様を見つめました。
 いつのまにか、青ざめた指の間に青い水の炎を灯して。

 水はひんやりと冷たく、けれどとてもやさしいそよぎでひたひたと寄せてきます。
 ぎゅっと薄くなった風たちは、まるでごく薄い衣を通しているかのように、湖の静けさを伝えてくれます。
 いつかきっと、自分の体ひとつでここに来てみたい。シャルカは痛いほどに願いながら、青年を見つめました。
 そんなシャルカに、差し出した青年の指先は、ふとためらいがちに風の膜の向こう側で止まりました。
 こわしてはいけない…青年は目を伏せて、《さかさまの虹》のはじまりへと先導していきます。青年の作り出す水の流れに乗って、シャルカと風たちはまるでやさしく誘引されるように虹のはじまりへと降り立ちました。

 あの先は、わたしひとりでいかなければ。
 シャルカは風の妖精たちに合図をして、青の虹のただ中へと自ら飛び込みました。
 心細そうに、妖精たちは風の紗をゆるめました。

 すると、どうでしょう。青の虹の中でさえ、水に触れたシャルカの指先は、ちりぢりになってしまったのです。
 風たちはもう一度シャルカを押し包みました。
 青の虹を進んでいくシャルカの脚がふるえます。深くもぐるほど、水は急に重く、また鈍くなって、シャルカを周囲からしめつけはじめました。
 進みの止まりがちなシャルカを、青年は心配そうに見守っていました。
 たぶんもうこれ以上、進めないのだろう……青年は、風の衣を破らないように注意しながら、そっと背後からシャルカを抱きしめると、力強い尾ひれを振って、さらに青の虹を進みはじめます。
 と、そのとき。水の重みに耐えられなくなったひとりの妖精が、不意にシャルカからひきはがされ、水面へと浮かびはじめました。まるで吸い上げられるように、勢いをつけて。あるいは、空に呼び戻されたのかもしれません。そして次々と、妖精たちは空へ引き上げられていきます。

 シャルカを水が満たしはじめたのは、あっという間でした。銀色の燐光がぱあっとまぶしく光を散らしはじめます。
 解き放たれたシャルカは、輝きを上げてはくずれ、銀色の花火のように散り始めました。
 いけない…! 青年は自ら流れを作り出し、シャルカにあたる水の流れをいちばんゆるやかになるようにしました。
 けれど、銀の広がりは止まる様子を見せません。
 このままでは、ひとつぶ残らず溶け去ってしまう。
 青年は、シャルカの首すじに手を伸ばすと、二枚貝の蒼いかたわれを取りました。自分の腕に巻き付けていた銀色のかたわれをつかみ、ひもを引きはがします。
 そして、両の手で貝殻を持つと、ほとんど銀色の広がりに飛び込むようにして、シャルカの体のいちばん奥にさしいれました。
 シャルカの体のまんなかの、いちばん強い輝きを持つ光を、閉じこめます。
 そのまま、青年は向きを変えました。
 片方の腕を空へと差し伸べ、指の間にともした青い水の炎で、あたりをちいさく照らしながら、水面を目指して勢いよく上りはじめます。
 漆黒を置き去り、群青を過ぎ、青がよみがえり、やがて水面の明るい光の波がはるかかなたでゆらめきはじめます。
 これほど水から逃れたいと思ったのは初めてだ…そう心の中につぶやきながら、青年は水面までの距離を、尾ひれの最後の一振りで上りきりました。

 ぽかりと浮き上がると、急いで岸辺に身を寄せます。
 先に空まで引き戻されてしまった風の妖精たちが、おろおろとうろたえながら集まってきました。
「シャルカさん…溶けちゃったの?」
 青年は難しい面もちのまま、シャルカのはいった貝殻を開きました。
 そこには、ちいさな銀色の光が貝殻に守られてそっと揺れていました。それは、ひとしずくの涙のようにも、水の炎のようにも見えました。
「できるだけのことはしました。これで、元に戻ってくれるといいのですが…」
「よかった…これなら……シャルカさんならきっとだいじょうぶ」
「もう一度もとの指なしシャルカさんになるまで、消えちゃったりしないよ」
「ぜったい元に戻るよ。でももう水はきらいだって言うかもしれないけれど」
「そのほうがいいのかもしれませんね」
 かすかな寂しさをにじませたほほえみを、青年は浮かべました。

 シャルカが再びもとの姿と輝きを取り戻したのは、ひとつの季節が移り変わりを終えるほど長い日にちのあとのことでした。
 青年はそのあいだ、毎日シャルカのもとを訪れていましたが、しずくをふりかけてはたいへんですから、そばに近づきはしませんでした。
 《もの思いの岩》のところで待ち合わせをしたシャルカは、今度こそ青年を待たせることのないように、ごく早くそこに着きました。
 予想通り、ほどなく青年は姿を現しました。
 風たちに、毎日のお見舞いのことを聞いたばかりのシャルカは、少し申し訳なさそうなほほえみで青年を迎えました。
「もう、平気よ。いますぐにでもそこに行きたいくらい」
 シャルカは危ない目にあったことなどすっかり忘れてしまったように、今日も水に顔がふれるばかりにして湖に寄り添っています。
 注意深く距離をあけたまま、青年はシャルカの近くを行きつ戻りつしていました。
「苦しくはありませんでしたか?」
「いいえ、ちっとも。それどころか鼓動が水に溶けていくようで、心地よかったわ…だけど、そのときふと思ったの。銀の虹にはなんの役割もないでしょう? 空で光っているだけ。わたし、《さかさまの虹》を渡って、溶けない体になって…そうしたら、何かの役に立てるようになるかもしれないって。それがわたしの夢だったのかもしれないの」
「役に立つようになれるか、なれないか。どちらでも、かまわないのではありませんか? あなたはあなたですし。湖も空も、こんなに広いのですから──それに、綺麗ですよ、銀の虹は」
 岸辺にうつ伏せになったまま両腕で頬杖をついて、シャルカはしばらく考え込みました。
 それから、ふわりと笑うと、指先を伸ばして青年を誘いました。
 戸惑いがちに、そしてこの上なく慎重に、青年は水の間をくぐって寄ってきます。
 風の妖精たちが心配と興味のないまぜになった様子で、空からふたりをそわそわと見つめています。
「そうね…どちらにしても、こうしてそばにいることはできるでしょ?」
「苦しくなかったとのことですが...体がもとに戻る間も、ですか?」
「湖の景色をまだ見ているような…ふわふわして…眠りながら素敵な夢を見ている感じだったの。少しも苦しくはなかったわ」
「ほんとうに?」
「ええ、ほんとうに」
「そうですね、それなら……そう、ではついでにあと何日か、素敵な夢、の続きを見ていてくれますか?」
 不意に、いたずらな光を瞳に浮かべ、青年はシャルカに近寄ります。
 小首をかしげたままはにかむシャルカの顔の高さへと、青年はごく近く、尾を静かにゆらめかせ──。
 頬をそめて、シャルカは身を起こしました。体中の銀の粒が、ほとんど音を奏でそうなほどの光で、いっせいにさざめき立ちます。
 立ち上がったシャルカを、妖精が覗き込んで、くすりと笑みをもらしました。
「あ、口なしのシャルカさんだ」






新居昭乃さん『さかさまの虹』が好きで、この世界観を物語にしてみたいと思って書きました。

↓↓シャルカさんが歌います🎤〜🎶



画像:Elena Pimonova@stock.foto
色、シルエットなど加工しています

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