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正しく考えるためにはー思考の断捨離という罠ー

 「無駄な思考を省きましょう」

 ミニマリズム系のインフルエンサーは、こんな主張をよくしています。心理学、哲学などの研究論文や著書からの引用、偉人の名言、はたまたご自身の経験からくるのでしょう。SNSでは、そんな主張を称賛する声のなんと多いことか。

 思い悩みたくないのになぜだか考え込んでしまう。きっと、こんな風に困っている方が大勢いらっしゃるのではないかな、と感じました。そしてそんな方は、ややもするとミニマリズムに傾倒してしまい、「思考すること自体」を無駄だとみなしてしまうことも・・・。何を隠そう私も「考える時間がもったいない」と考えたことがあります。

 「服や生活習慣と同じように、思考も断捨離してしまえ」

 この思考回路がなんだか危なそうできな臭いことはわかるのですが、かといってどうしたらいいのか分からない。当時の私は、こんな風に思っていました。

 わたしたちミニマリストは、どのように「考える」べきなのでしょうか。そして、どのくらい考えて、暮らしていくべきなのでしょう。今回はそんな疑問を出発点に、「考えること」について勉強した内容を、参考にした書籍と私自身の経験の紹介も交えつつ、皆さんにお伝えしていこうと思います。

 結論から申しますと、孤独な時間ネガティブケイパビリティが重要である、と言えそうです。詳しく見ていきましょう。


はじめに

 わたしは、考えごとをよくします。

 随筆家でも科学者でもアーティストでもありませんし、なにか壮大なテーマについて取り組むわけでもありません。ただ、何かしら考えがちな人間です。布団に入って眠るまでの少しの時間、通勤の歩いている時間、仕事や読書、映画鑑賞中にも、「今年の夏はどんな服を着ようかな」とか「一生いまの仕事を続けるのかな」とか、そんなとりとめのないことを考えてしまいます。

 そのために、寝る時間が遅くなることがよくあります。歯磨きも時間がかかりますし、ふと気づくと読書中に物思いにふけってしまいページをめくる手が止まっていた、なんてことしばしばあります。考えることで、時間が消費されてしまっている感覚が、確かにありました。

 最近読んだ本にも、こんなことが書かれていました。

まずは、「考えること」を遊び道具にするという悪い癖をやめなければなりません。思考とは、それ全体が大きな働きをもつ、とてもまじめな道具です。決しておもちゃではないのです。

簡素な生き方 シャルル・ヴァグネル著/山本知子訳

 考えること。それはミニマリズムを標榜するインフルエンサーにとって「無駄で削るべきもの」であり、私個人にとっては「ついついやってしまう時間を奪うもの」、そしてこちらのフランス作家にとっては「大きな働きを持った、まじめな道具」なのです。わたしたちは身近にあるこの行為について、どう捉え、どう付き合っていくべきなのでしょうか。もう少し掘り下げてみる必要がありそうです。

考える時間は無駄なのか

 ミニマリストは多種多様な「無駄」にスポットライトを当て、断捨離をしていきます。もちろん、「時間」も例外ではありません。通勤、家事、飲み会、そして考える時間も、削るべきものだと判断しています。まさに私も、考えることによって時間が奪われていると感じていました。

 そもそも、なぜ我々は「考える時間」そのものを、無駄で削るべきものとみなしてしまうのでしょうか。このテーマについて、悶々と考えてみました。答えを求めて、思考に関する書籍をいくつも読んでみました。そうしていくうちに、思い浮かんだ言葉があります。生産性のなさ、そして堂々巡り。「考える時間」を軽視する感情は、この2つの言葉に収束していく気がしてきたのです。

「利益が出ない=悪」という資本主義の権化

 「考える時間は何も生み出さないのだから、考えることは無駄である」

 この考えは、なかなか説得力があるのではないでしょうか。

 わたしのような普通のサラリーマンは、労働によってお金を稼いでいます。「考えごと」では直接収入に結びつきません。じっと考えているよりも、もくもくと働いている方がお金になります。脳みそよりも体を動かした方が、ずっと生産的に感じられるのです。

 生産的な人物といえば、やはりスティーブ・ジョブス氏(アメリカの実業家。世界的大企業Appleの創業者の一人。iphoneの生みの親)でしょう。彼は決まった衣服を着続けることで「その日に着る洋服を選ぶ時間」を削減し、その分のエネルギーを生産性のあるものに注ぎました。彼の働き方やファッションが有名なのは、名のある実業家であるというだけでなく、その考え方がみんなに響いたからでしょう。

 スティーブ・ジョブスのように発想力、想像力が生産活動に直接結びつく人でさえ、服を選ぶという(彼にとって)無駄な考えごとを省いています。だからこそ、考えることが生産的になんの意味もないような私たち一般市民にとって、考える時間は無駄だと言われているのでしょう。「そんなことに時間を費やすのではなく、もっと生産し、もっと豊かに幸せにおなりなさいよ」と、ミニマリスト諸兄は我々に語りかけているのです。

 ただ、「スティーブ・ジョブスのようなストイックさで『考えないといけない』ことが、果たして私にあるのだろうか」と自問しますと、この説にもろ手を挙げて賛成できない自分がいます。生産性を追い求めることは、人生の豊かさを失うことになりかねないとも、感じてしまうのです。

 ミニマリストの多くは、ものを少なくして暮らすという習性から「資本主義は我々に消費活動をさせようとやっきになっている」と知っており、そこから一定の距離をとっています。しかし「利益を生まないものは無駄である」と考えることもまた、とても資本主義的です。知らず知らずのうちに首までどっぷり浸かっていた、なんてことにはなりたくないですよね。

堂々巡りで時間がかかる

 「考えごとをしても結論は出ないのなら、最初からしない方がいい。堂々巡りをするのは時間の無駄である」

 これも、考える時間が無駄に思える、もっともらしい理由です。

 堂々巡り。これは私がよく陥る思考パターンでもあります。満足いく答えが導き出されることなく、時間だけ過ぎていく典型例ですね。欲しい服を見つけた時、積み立て投資額の増減を考えた時、同僚との付き合い方を思案している時。いろいろな考えがぐるぐる巡り、最後にはふりだしに戻るのです。脳内会議で納得できる案が出ないので、結局何も変わりません。ただ時計の針だけが進み、残るのはモヤモヤだけです。

 確かにこれは、時間と労力を無駄にしていると言いたくなります。

 しかし、これは堂々巡りしてしまう私の思考の稚拙さが問題なのであって、考えること自体が悪いわけではないと思うのです。

 上手に考えることができていれば、堂々巡りすることなく、つまり時間を無駄にすることなく、何かしらの答えにたどりつけるのではないでしょうか。たとえ何も得られなかったとしても、正しく考えた道筋は、鬱蒼とした山林にひっそり存在する踏みしめた獣道のように、自分の中に資産として残ってくれるはずです。

考えることは筋トレと同じ

 くよくよ考えがちな私の経験から言えることがあります。

 「考えることは無駄だ」と感じてしまう原因は、生産的に考えられなかったり、考えが堂々巡りしてしまったときに感じる、「結論が出なかった…」という徒労感です。

 ここで私たちは、「どうしてこの徒労感は生じてしまったのか」という疑問で立ち止まり、注意深くあるべきでしょう。なぜなら、徒労感が考えるという行為そのものから生じるのではなく、私たち自身が上手に考えられなかったから生じている、という可能性があるのですから。つまり、すべては自分の考える力が足りていないだけのことであり、上手に考えることが出来れば、くよくよ悩まずに済むかもしれないのです。

考えるという筋肉をつける

 では、どうしたら上手に考えることができるようになるのでしょう。そんな思いで調べた続けた結果、皆さんにおすすめしたい解決案を見つけました。頭の筋トレです。

 「思考がうまくまとまらない・・・」というのが、私がよく陥る思考パターンのひとつなのですが、要は「10㎞マラソンを完走できない」と言っているようなものであり、ただの練習不足と切り捨ててしまうことができる類のものでした。もちろん体調不良や過酷な課題である場合もありますが、運動を滅多にしない私のようなインドア人間が10㎞も走れるわけがなく、まずはトレーニングから始めるのが定石と言えます。

 ところが私は、考えることに「練習が必要だ」なんて考えたことはただの一度も、微塵もありませんでした。

「だってしょうがないじゃないか…」

 小学校の頃から、体育の授業で走り方やボールの扱い方は練習し続けてきました。計算や暗記の仕方も勉強してきました。しかし、思考については、「ちゃんと考えなさい」と叱られたことはあれど「どうやって考えればいいのか」教わったことはありません。いわんや考える練習をや、です。

 思考することにも、筋肉のような瞬発力や持続力は必要です。そしてそれは、日々の思考の積み重ねによって得られるもので、漫然と繰り返すより正しく努力を積み上げた方が、思考という筋力は増していくでしょう。いきなり10㎞マラソンを完走することはできないし、YoutubeやSNSで見聞きした方法で翌日に美しいボディを手に入れることができないと同様に、考えることにも習熟が必要なのではないでしょうか。


 わたしが大好きな小説家の森博嗣氏が、書籍の中で語っていたお話を紹介いたします。

畑に種をまいたら豊作になった。それを見て「種をまいただけなのにずるい」と文句を言う人がいる。しかしその人は、豊かな土壌になるようにと懸命に土を耕す努力があったことを知らない。

お金の減らし方/森博嗣著 より一部意訳

 ここで著者が伝えたかったことは、自分という土壌を耕すことで、自分が生み出すものを増幅させることができるということだと思います。

 それは、仕事の成果であったり、楽しい経験であったり、どんなものにも当てはまるでしょう。わたし自身にも思い当たる経験はあります。英語の勉強をしていく中で海外文化の知識も増え、絵画や映画をより楽しめるようになったこと。趣味で学んだ心理学の知識が、職場で活かせたこと。読書によって増えた語彙が、執筆を楽しくしてくれたこと、などなど、挙げ始めたらきりがない。

 土を耕し種をまく農夫のように、せっせと鍬を入れ柔らかくした頭で思考すること。これが大切であると、私は感じました。なにも考えてこなかった不毛な(比喩表現です)頭を耕し、鍛え、たくさんの発想とひらめきを収穫していきたいですね。

考えないことのデメリット

 思考を深めていくためには、「問い」が重要であると、今回のテーマについて勉強する中で学びました。そこで、なぜ考える練習(筋トレ)が必要なのか、そして考えないとどうなってしまうのか、という視点も取り入れてみます。

 ここでは、私を含めた多くのミニマリストが実践しているであろう「積立投資」を例に考えてみたいと思います。

 積立投資を始めようと思ったら、まずはどんなものかを調べないといけません。そんな時、Youtubeが便利ですよね。懇切的寧にいちから説明してくれているチャンネルがたくさんありますから。

 そうやって準備を重ね、いよいよ投資ができるようになりました。さて、ここで問題が起きます。どの投資商品を選べばいいのか、まったく分からないのです。

だって初心者なんですもの…

 ここでミニマリストのあなたは、「悩む時間は無駄で、貴重な寿命の損失である」と信じているとしましょう。投資する対象(ファンド)を時間をかけずに決めたい、という1点のみを優先している状態で、意識高めな表現をすれば、あなたのインセンティブは時短ということです。

 すると、あなたが次にとる行動はおのずと決まってきます。Youtuberが勧める情報を鵜呑みにして、おすすめ銘柄をスマホでぽちぽち注文するのです。時間をかけずに、将来に備えた積立投資をすることができて、一件落着です。めでたしめでたし。


 このように「考えない」ことの、なにがいけないのでしょうか。時間の消耗を最小限にして目的を達成するこができたのであれば、それでいいと考える人もいるでしょう。もし、考えずにものごとを進めることにデメリットがあるとすれば(私はあると信じて疑いませんが)、それをはっきりさせることで考えるという筋トレに対するモチベーションを高められそうです。

 もちろん、投資というリスクのある行為を何も考えずに実践してしまうことが危ない、ということに反対意見のある方はいないと思います。お金をだまし取られるかもしれないし、成績の良くない銘柄に投資して損をしてしまうかもしれませんもの。しかしこれは、考えたことで得られる知見というよりも、一般常識や世間に漂う感覚といえるものです。積立投資に関して、もっと考えるべきことはあるはずです。

 そもそも積立投資は、自分のためです。老後資金とか、FIREを目指すとか、人によって多種多様な理由はあれど、突き詰めれば「自分の未来をより良いものにする」ということのはずです。そのために投資をするのであれば、何年後までにいくら積み立てる必要があるとか、どの程度のリスクなら許容できるのかとか、いくら考えても考えすぎることはありません。だって、人生がかかっているのですから。


 ここでなにが言いたいのかというと、自分の思考を積み重ねていない人は、間違いや嘘、他人の都合に人生を左右されてしまうということです。体幹トレーニングをしていれば、電車の揺れで転ぶことはありません。しかし、ずっと自堕落に暮らして筋肉が衰えてしまうと、ちょっと小突かれただけで転んでしまいますし、骨折してしまうかもしれないのです。

 「考えること」に慣れていないと、必要な時に考えることができません。決定を下すために集めた材料(アフィリエイト収益目的のインフルエンサーの発言、根拠のない一般常識など)に、かえって惑わされることもあるでしょう。道に迷わないためには地図を読めなくてはいけないし、自分の身を守る術は持っていなくてはなりません。考えるということは、そういった類の能力であり、その筋力は使わずに衰えさせていいものではないと感じます。 

ちょっと休憩:エースからの学び

 真面目に書き続けて疲れてしまいました・・・。

 ちょっとここいらで、休憩がてら、考えることについての私の感想のようなものを挟ませていただきます。


 考えること自体を断捨離してしまおうと考えるミニマリスト(私を含めて)は、きっと考えることが「へたくそ」なんだと思います。

 うまく考えることができないから、満足いく結論を導き出せずに「堂々巡り」してしまう。そしてイソップ童話さながら、考えること自体を酸っぱいブドウだと言い張り、「考えられなくたって平気だい!」とさじを投げてしまうのです。

 自分が童話のキツネのようだと自白するのは、とっても恥ずかしい・・・。しかし、それを逆手にとって眺めてみると、「正しく」考えることができるようになりさえすれば、光明がみえてくるということではないでしょうか。

 突然ですが、最近のわたしは高校バレーボール漫画「ハイキュー」にハマっております。月並みな表現になってしまいますが、個性あふれる魅力的なキャラクター達が敵味方に入り乱れ、手に汗握る試合を展開したかと思えば、コミカルなやり取りに笑ってしまう。とてもよい作品です。まだ漫画を読んでいない方、アニメを観ていない方はぜひ一度お試しくださいませ。

 そんなハイキューの作中で、とある強豪校のエースが練習に消極的な後輩に対して次のように語っています。

 「君がバレーを好きになれないのは、へたくそだからである。いつか最高のプレーができたその瞬間、君はバレーボールにハマるのだ(意訳)」

 きっと、考えることも同じなのです。成功体験を積むことができれば、つまり正しく考えることができれば、考える時間を断捨離しようなんて思わなくなるはずなのです。

正しく考えるためには

 ここまでつらつらと述べてきたことを、いったんまとめてみます。

 わたしたちが「考える時間は無駄」だと感じてしまうのは、とどのつまり「考えるのがへたくそ」だからであり、「正しく考える」ことができていないから。
 だからこそ、「正しく考える」ためにはトレーニングを繰り返して、考える筋肉をつける必要がある。

 おおまかに、こんな感じでしょうか。

 ここでひとつ疑問が湧いてきす。「正しく考える」とは、どういう考え方を指すのでしょうか。

 間違ったトレーニングをしたところで、いい結果は出せそうにありません。胸板を厚くしたいのにひたすらスクワットして足だけムキムキになっちゃう、なんてことにはなりたくありません。

 そう思い立った私は、図書館で片っ端から参考になりそうな本を読み漁り(買わないんかい)、勉強してきました。「正しく考えるためにはどうすればいいのか」。ここからは、そんな私の学びのアウトプットにお付き合いいただきます。

他者を住まわせるための読書

 思考が堂々巡りしてしまい、考えがまとまらない。

 冒頭に私が述べた、よく陥る思考パターンです。ひょっとするとこれは、独りよがりに結論を出そうとしているから、かもしれません。考えるという行為は孤独なものである。そんな思い込みを捨てることができれば、思考の迷宮から抜け出せるヒントが見つかるかもしれません。

 考えが堂々巡りしてしまう時には、別人の視点に立ってみるのです。自分の脳内でいくらこねくり回しても解けなかった糸の絡まりも、他人の登場ですんなり解決してしまうことがあるのです。とはいえ、なにも深夜1時に友人をたたき起こして電話口で相談する必要はありません。尊敬する人、有能な人、独創的な人を、私たちの頭の中に住まわせればいいのです。

 大谷翔平ならこうするだろう。波辺美波ならこう助言してくれるんじゃないか。エジソンならこんな切り口の考えを試したりするのかな。こんな感じです。

 長時間の作業でこわばった体をほぐすためには、窓の外の空や街路樹に目を向け、立ち上がって伸びをして、コーヒーを淹れなくてはいけません。ひとりで考え続けた後には、ほっと一息ついてから、過去の偉人や現代のスター、はたまた尊敬する父親、母親に相談しながら、凝り固まった脳をほぐしてあげるのが効果的です。


 「他者を自分の頭の中に住まわせる」ことは、「他者の思考、視点を自身に落とし込む」ということです。陶芸家か粘土をこねるように、農家が畑を耕すように、シェフが具材の下ごしらえをするように、私たちは頭をこね、耕し、下ごしらえする。そのために必要なのは、スコップや包丁ではなく、一冊の本です。

 過去の偉人も現代の天才も例外なく、彼らの知識、経験、思考を注ぎ込んだ本は、まさに彼らの分身です。私たちは、決して会えないような人々の思考を、本という窓からいくらでも覗き見ることができます。自分ひとりの人生経験など、たかが知れています。私はまだ30年しか生きていない若輩で、森羅万象あまねく自分の脳内で処理することはできないのです。「このまま今の仕事を続けるべきなのか」「ミニマリズムは本当に幸福につながっているのか」「お金はいくら貯めるべきなんだろう」と、常にぐるぐる考え、迷っています。そんなとき、本という窓を通じて得た「他者の視点、思考」は、この若輩者に道を示すとまではいかないものの、示唆を与えてくれます。なんとなくの方向性をつかむことさえできれば、思考の迷路を進むのも、ちょっとだけ安心できそうじゃありませんか。

 アニメで大ヒットした『葬送のフリーレン』でも、主人公はこう言っています。「ヒンメルならそう言う」と。

自己対話のための趣味

 黙って悶々と考えるより、言葉にした方が思考は滑らかに進むものです。「沈黙は金」といいますけれど、その分重たく鈍くもなります。登山では荷物の軽さが登頂成功率を押し上げるそうで、少しでも軽い道具を選び、余計なものはリュックサックに入れないのだそうです。わたしも手ぶらで出かけることが多く、たまにカバンを持ち歩いた日は、帰宅してから体力を消耗していることに気が付きます。

 考えごともきっと同じで、ある種の身軽さ、脳内動作の滑らかさが、思考をすいすいと先に進ませてくれるはずです。そのためには、考えを言葉にすることが大切なのではないでしょうか。沈黙は、時には足枷になってしまうのです。

 言葉にすると申しましても、ぶつぶつ独り言をしなくてもいいです(私は電車でよく考えに耽るので、そんなことをしたら周囲の冷たい視線で凍えてしまいます)。頭の中で言語化するだけで、思考の整理整頓はできます。独り言として自分自身に語りかけることだけでなく、前述した「自身に住まわせた他者」と語らうことも含めた、これらの自己対話が鬱蒼とした森の中を進む一筋の小道になります。
 
 ふだんの暮らしの中で、自己対話をするなんて経験はそう多くありません。もう一人の自分と「今日のランチはどれにしようか」と相談し合ったり、偉人達と今後のキャリアプランについて脳内会議を催すことは、レアな体験といえるでしょう。これはなにも、自己対話をしていない我々の意識が低いからとか、自己対話は高等技術だから、なんて理由ではありません。ただ、私たちに孤独な時間が不足しているからです。

 ここで述べる「孤独」とは、英語でsolitudeと表現されるもので、前向きなニュアンスで使われています。思春期の頃によく感じていたloneliness(さみしさ、孤立)とは別物です。

 自己対話、つまりひとりで静かに内面を見つめるためには、周囲に気を散らされていては難しいでしょう。自己対話には、安心して、落ち着いて、集中できる環境が必要です。かといって、千利休の茶室のような環境を自己対話のために用意できたとしても、それを孤立していてさみしいと感じてしまっていては、自分と対話する時間は保てません。そのために、孤独な時間が必要であり、孤独はlonelinessとは違うとご説明したのでした。

 「孤独な時間の中、自己対話する」なんて、なんだか大仰です。しかし、そんなことはありません。わたしは、料理をしているとき、シャワーを浴びているとき、歯を磨いているときなど、暮らしの中の何気ないタイミングに、はっと良いアイディアをひらめいたり、しばらく抱えていた悩みごとの結論が唐突に出せた、なんて体験が少なからずあります。ひとりで淡々と手を動かしているうちに、思考が整理されたのでしょう。このときわたしは、ひとり孤独に手を動かし、「さみしい」とか「ひとりぼっちだ」なんてことは微塵も考えていませんでした。なにかに集中して手を動かすことで、「孤独な時間の中で考える」ことができたのでしょう。

 考えるということは、椅子に座ってじっと押し黙ることではなく、時に身体的な営みでもあるようです。

 無心に、なにかに夢中になって手を動かすこと。ピンときた人も多いでしょうが、この時間を作ることにうってつけなのが、趣味に没頭することであります。プラモデルを組み立てたり、お菓子を作ったり、陶芸や家庭菜園をしたりと、手を動かす趣味というのがポイントです。映画鑑賞やお昼寝なども立派な趣味ではありますが、自己対話のための孤独を生む、という点では相性がよろしくありません。むしろ、映画鑑賞中に自己対話を始めてしまうと、当たり前ですが、脳内の声がうるさくて映画の内容が頭に入ってこず、楽しめません(実体験です)。思考を深めるためには、身体的要素のあるなにかに没頭する時間が必要なのです。

 このような趣味の時間を持つことで、孤独な時間を確保することができます。それは絶好の自己対話の機会となり、思考が深く、円滑に進む手助けになるはずです。


 ところがここで、ひとつの問題がぬっと顔を出します。孤独、つまり趣味の時間を持つ余裕なんかないという、悲痛な叫び声です。もしかしたら、みなさんの中にもいらっしゃるのではないでしょうか。

  平日は仕事があるし、帰ったら家事を片付けて眠るだけ。休日は、仕事の疲れをとるためのダウンタイム、かつ来週の仕事に備える休息に充てられる。こんな暮らしのどこに趣味を楽しむ時間があるというのか。ここに、現代社会の問題、すなわち我々の生活習慣に潜む問題が隠れています。

 スマホが普及した現代では、通勤中に音楽を聴き、電車やレジの待ち時間でスマホゲームのデイリークエストをこなし、家事をしながら動画を見続ける、といったマルチタスクをこなすことが当たり前になってしまいました。この「ながら作業」、つまり同時にいくつものタスクをこなすという習慣から、われわれは時間を「活用すべき資源」ととらえて消費するようになってしまった、といわれています。この、いわゆるタイパ(タイムパフォーマンスの略。少ない時間に大きな効果を得るという思考)を意識するようになっていることが問題なのです。

 タイパを意識するあまり、ただぼーっとしたり、景色を眺めたり、趣味を楽しむといった時間を、他の何かに活用してしまう。だから趣味にあてる時間が残されていない。つまり、孤独な時間とその恩恵を得ることができないのです。

 わたし達は、いまいちど「時間」という代物の取り扱い方を見つめ直す必要があるのかもしれません。

 ※自己対話と孤独、趣味に関して、こちらの書籍を参考にさせていただきました。2023年で一番影響を受けた本です。実は読書好きなんです、わたし。

意外と難しい自問自答

 正しく考えるためにはどうしたらいいのか。孤独な時間を持ち、自己対話をして、思考の整理をしてあげるといい。さらに、読書などによって住まわせた他者と対話をすると、考えを深めることができてなおよし。

 こんな風に話を進めてきました。しかし、自己にしろ他者にしろ、そもそもどうやって脳内で対話を繰り広げていけばいいのでしょう。

 自己対話をする、つまり思考を深めていくために大切なのことは、「問う」ことだそうです。自己対話が自身との語らいであるように、自身に問うこと、つまり自問自答が必要というわけですね。
 
 なぜ「対話」のために「問い」が必要なのか。この質問の答えは簡単です。初対面の人とのおしゃべりで、「お仕事はなにを?ご趣味は?」と質問して関係を深めようとするように、問うことで思考を深められるというわけですね(振り返ってみると、この文章自体が「どうすればいいのか」という自問自答で進行していることに気づきました)。

 とはいえ、自己対話での自問自答では、どんなことをどんな角度で質問すればいいのでしょうか。こうして改めて「問うこと」をまじまじと眺めてみると、われわれは学校のテストで課される「解くべきものとしての問い」しか教わっていないのかもしれません。

 わたしが勉強した「自問自答のコツ」をひとつ、みなさんに共有いたしましょう。なにか思い悩んだ時には、その言葉を定義しようと試みるのがおすすめです。

 「将来が不安だ」と思ったなら、次は「将来って具体的にいつのことだろう」と考えてみる。

 「10年後のことかな」と思い浮かんだなら、「10年後の何が不安なんだろう」と歩みを進める。

 「漠然としていて分からないよ」と行き詰まったとしても、自分に住まわせた他者の力を借りて「あんたバカ?どうせ結婚できないかも、とかお金がなくなったらどうしよう、なんてしょうもないこと考えてるんでしょ!(by惣流・アスカ・ラングレー)」と問い詰めてもらうのです。

 別に私が罵倒されたい体質の人だとか、そういうことを言いたいのではありません(決して)。思考が堂々巡りしてしまう原因のひとつは、「うまく言語化できなくてこれ以上進めない」という感覚だと思うのです。そんな時は、うまく言語化しようとする試みを捨てて、その難解な問題を手に取り、裏返したり光にあててみたりと、いろんな角度から眺めてみることが、時には役に立つのではないでしょうか。

 こうやって問いを重ね(自問自答し)ていくことで、自身の考えを脳内で語り(自己対話)、その会話を無意識に自身が聞くことで、思考は整理、深化していくことができるのではないか、と考え方の勉強をしていく中で感じました。

モヤモヤを断捨離しない

 ミニマリストは考える時間すら断捨離してしまいがち。

 冒頭に、私はこのように述べました。ミニマリストという生き物は、常に軽やかに生きていきたいという信念を持っているがゆえに、モヤモヤとした感情を抱えたまま過ごすことに過剰なストレスを感じます。

 しかし、このモヤモヤこそ、注視すべき大切な思いの発露であると、先ほどご紹介した「スマホ時代の哲学」では述べられています。ミニマリストは、いえあらゆる人が、「自分は間違うかもしれない」「迷路に迷い込んでいるかもしれない」なんて思うことなく、断定し、断言し、モヤモヤを切り捨てて日々つつがなく暮らしている。しかし、つかみどころのない煙のようなモヤモヤを抱え続ける能力(ネガティブケイパビリティ)が、我々には必要だというのです。

 小難しい用語を抜きにしても、なんとなくこの本で言わんとすることは分かります。私自身、そしておそらく皆さんも、ネガティブケイパビリティの恩恵を体験したことがあるはずだからです。

 学生時代に、解けなかった問題が時間を置いただけですんなり解けてしまった。

 文章を書いていて、いい言い回しが思いつかなかったけれどトイレに行ったらなぜか思いついた。

 簡単には解決できない問題を抱え続けること(ネガティブケイパビリティ)によって、氷を徐々に溶かすように、固いものを咀嚼して少しずつ飲み込むように、ふとした瞬間に自分のものにすることができることもあります。もちろん、モヤモヤを抱えているだけで時間が勝手に解決してくれるというわけではないでしょう。しかし、「ミニマリストなら○○するのが当たり前だ」のように、モヤモヤした感情を一刀のもとに切り捨てるのでは、ただ問題に蓋をして視界から排除し、すっきりした気分になるだけです。何にもなりません。

 せっかく発露したモヤモヤは、大切に取り扱いたいものです。それは、上手に思考するコツ以前の、自分自身を大切にすることにもつながっているかもしれませんから。

結び

 考える時間が無駄に思えてしまうのは、わたし達が上手に考えることができていないから。

 思考も筋肉と同じように、日々の繰り返しで鍛えられていく。

 他者の思考を取り込み、自問自答しながら自己対話をしていくことで、思考を整理、深化させることができる。

 考えることには、孤独な時間とネガティブケイパビリティが大切。

 今回わたしが学んだことをまとめると、このようになるのでしょうか。最後にもうひとつだけ、学びの中で感じたことを、私のための忘備録として記しておこうと思います。


 言語とは、世界を見る窓であり、時がたてば汚れて曇ってしまうかもしれません。ちゃんと磨いて手入れをしてあげなければ、窓を通した景色は綺麗にみえません。言葉も、それをつかさどり操る思考も、ガラスと同じように砂塵に汚れ、曇ってしまうものなのではないでしょうか(わたしが大好きな漫画「ブラックラグーン」の作中でも、尊敬するバラライカ氏が「魂にも脂肪がつくものだ」とおしゃっていました)。

 しっかり磨いてあげなければ、ものごとはよく見えません。よく見えなければ、深く考えられもしません。もし、自分の人生について深く考えられないのなら、幸福も豊かさも失いかねません。

 ミニマリズムとは、人が豊かで幸せに生きていくための指針のひとつにすぎません。そうであるなら、ミニマリストが豊かさと幸せにつながる窓を、粗末に扱っていいはずはないと思うのです。

 わたしは今日も、自分の窓をきれいに磨き上げていこうと思います。

 
 おわり


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