勿忘草

22歳。忘れたくないもの、書きたいものを気が向いた時に書いています。

勿忘草

22歳。忘れたくないもの、書きたいものを気が向いた時に書いています。

最近の記事

あいまいなひとりごと

いつも、ふわふわしている。目に映る景色が流行りのフィルムみたいに淡くぼやけた感じがする。感じがするってだけで、実際視力に異常はないのだけれど。 いつも、にこにこしている。嫌いな人に嫌いな言葉をかけられた時も、とりあえず笑っておく。人の好きなものを否定する人とは、たぶん関わりたくないのだけれど。 いつも、そわそわしている。大切な人を無自覚に傷つけたのではないかと、怖くなる。大丈夫だよと笑ってくれるものだから、結局甘えてしまうのだけれど。 こんなふうにして、私という人間は「

    • 大それた文章は書けないけれど、私が零した一言で誰かを救ってみたいと思ったりもする。とにかく私はいつも、優しいものを書きたい。色素の薄い、けれど確かに優しくて美しいものを書きたい。

      • 母の父に対する不安を側で聞いていると、結局永遠の愛なんて存在するのかという恐怖が押し寄せる瞬間がある。私は大切な人にいつまでも愛されていたいし愛していたい。けれどそれを口に出すことは怖い。死ぬまで一緒にいてと叫びたいけれど怖い。私は一人じゃ生きていけない。大丈夫にはなれない。

        • 大切な人ほど早く会いたかったと思うけれど、人の傷みをわかってから会えて良かったとも思う。

        あいまいなひとりごと

        • 大それた文章は書けないけれど、私が零した一言で誰かを救ってみたいと思ったりもする。とにかく私はいつも、優しいものを書きたい。色素の薄い、けれど確かに優しくて美しいものを書きたい。

        • 母の父に対する不安を側で聞いていると、結局永遠の愛なんて存在するのかという恐怖が押し寄せる瞬間がある。私は大切な人にいつまでも愛されていたいし愛していたい。けれどそれを口に出すことは怖い。死ぬまで一緒にいてと叫びたいけれど怖い。私は一人じゃ生きていけない。大丈夫にはなれない。

        • 大切な人ほど早く会いたかったと思うけれど、人の傷みをわかってから会えて良かったとも思う。

          暇さえあれば考え事をする私に暇な時間は向いていないのかもしれないとも思うが、心と体が分離される感覚に疲労もあるしで生活における自身のコントロールが難しい。

          暇さえあれば考え事をする私に暇な時間は向いていないのかもしれないとも思うが、心と体が分離される感覚に疲労もあるしで生活における自身のコントロールが難しい。

          最近のこと

          久々の投稿になってしまった。年末から年始にかけて色々なことが一気に起こり過ぎて、文章をゆっくりと書く時間もなかった。 今これを書いている私は相変わらず調子が優れないし、正直全く元気ではないのだけれど、文章を書くことで自分の感情を整理することが今の自分に必要なことだと思うので、ここに戻ってきた。普段から私は自分の話をすることがそんなに得意ではない。相手もつまらないだろうなとか、大した話でもないよなとか、無駄な妄想とマイナスな感情が人間関係を邪魔してくる面倒な人間です。本当に。

          最近のこと

          ぽろぽろ

          私がやってみたかったこと。 まずはバイトで沢山稼ぐ。 お金が貯まったら、旅行に出る。 月一くらいのペースで。 見たことのない景色を見て、美味しいものを食べる。 私は私なのだと実感しながら、綺麗な空気とご飯でちゃんと体を満たしてみたいなぁ。 あと、運転。 自分で色んなところに車で行ってみたかったな。 祖父母に恩返しで、乗せてみたいな〜なんて。 祖父は体が不自由だけど、きっと私が車を出せば、どこへでも行きたいと言ってくれるもんね。 それから、RADWIMPSの

          ぽろぽろ

          私の肩書き

          自分の悩みに病名という肩書きが付いて、少し呼吸が楽になった気がした。私だけがおかしいものだと思い込んで、考え過ぎてしまう自分を憎むのはもう嫌だった。 初めて大きな病院に行った時、私はそう思った。 昔から、考え過ぎてしまう性格だった。 人と話すのは好きだし、クラスでも社交的な方だったと思う。面談では「娘さん、特に言うことないです」と担任の先生に言われるような。そんな私の、年齢にそぐわない「落ち着き」は、思春期の人格を形成する主軸となって、いつの間にかどんなに年上の大人を相手に

          私の肩書き

          日常

          目が覚める。遅刻しないようにと大音量で15分ごとにスヌーズ設定にした目覚ましを止めてから、今日もあまり良い夢ではなかったなとため息をつく。仰向けに寝そべって天井を見て、今日がまた始まったのだと考えて、少しお腹が痛くなる。コンタクトを付けて、ぼやけていた視界がはっきりとする。ベッドから降りた足がひんやりと冷たい。洋服を着ようとクローゼットに向かう。服を選びながら、これも私の手なんだなぁなんてことを考え始める。ロボットのように、一つ一つの動作を的確に作業しながらふと、自分が立って

          消えたいとか、そうじゃないとか

          消えたいとか、死んでしまいたいとか、そういう言葉って自分からは絶対に出てこないものだと思っていた。 出しちゃいけないっていうのもそうだけど、何不自由なく生まれてきた私は、特段悪い環境に身を置くこともなく、ごく普通に生活を送ってきたから。少なくとも幼少期、中学、高校と、そりゃ色んなことがあったし辛いこともあったけれど、そういう言葉が頭に浮かぶことはなかったのだ。 だけど、離人感を感じるようになってから、ふと気を緩めた時に自分自身を「落とす」ことが容易に出来るようになっていったと

          消えたいとか、そうじゃないとか

          私と離人症

          私が、自分の感覚に明確な違和感を抱いたのは大学2年の秋頃だった。 ある日のバイト中にレジのお金を精算していて、ふと顔を上げたとき、自分自身が世界から遠ざかっているような、奇妙な感覚を覚えた。それまでにも、中学時代のお弁当の時間とか(以前の私は会食が苦手だったので) 寝不足の日やオンライン講義で緊張した時など、ある一定の緊張感が必要な時に発動する感覚ではあったのだけれど、ここまで鮮明に自分の存在を認識できないという体験は初めてだった。酷く恐ろしい気分になり、気のせいだと思い込も

          私と離人症

          はじめに

          これからの私の叙述は、誰かを助けるとか支えるとかそういう美徳の上に成り立つものではなくて、ただひたすらに私が自分の生活と離人症体験を書き綴りたいというエゴの上にあるものです。言葉で簡単に誰かを救済することは難しいし、私は自分のことすら救済出来ていないから。 なんていう格好つけたことを書きつつも、やっぱりどこかで、誰かの心に響くものを書きたいという矛盾した願望は持っている。小説にせよ、エッセイにせよ、詩にせよ、私は何かを綴る時は大抵その奥にいる読者を意識して伝えたいと思う。

          はじめに